夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――③

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座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――②

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座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――①
2012年5月某日

藪内 今日は18号の発送作業、お疲れ様でした。発送費用だけで2万円ふっとびました…。さて、突発座談会 笠木拓×藪内亮輔をなぜかはじめることになったわけですが、なんとここに、「率」創刊号があります!!
笠木 おー。ぱちぱちぱち。
藪内 私が裏ルート(?)で手に入れました。「率」って「町」の後継誌みたいな感じなんですかね?
笠木 うーん、だいぶ毛色が違うような気もしますね。これはただの印象で言うんだけど、「町」より女性的というか、「町」にはそんなにジェンダーとかセクシャリティーを感じるところはなかったんだけど、メンバーみんな女性的というか…そうでもないかな?
藪内 とりあえず前から見ていきましょうか。

川島信敬「クレド」

藪内 川島さんは女性的な作中主体ですね。
笠木 まあ川島さんの連作を読む時にはあんまりそんなこと考えないかなあ、でもかたいというか、昔の言葉がちょっとずつ入ってきてるね。「厨」とか。
藪内 まあ岡井隆が流入してきてる感じはしましたね。「ゆられるわれは」とか。でもちょっと不自然な感じもするんですよ。自然に出たものでない感じというか、やっぱり文語は「使ってる」うちは良くなくて、〈自分〉の本質的なところと融合させるっていう必要がどこかで生じてくる。
笠木 でもね、完全口語の文体だと、川島さんの連作では逆に作為とか手つきみたいなものが見え無さ過ぎて、でもこういう文語が入っているとちょっと、屈託みたいなものが出てきて良い面もあるなと思うな。
藪内 もうちょっと具体的な話に移りたいと思います。フロイト・ユングなどの片仮名固有名詞がときどき混じっているのが好きでした。〈ブイヨンの脂がスープに浮いており フロイトを離れるときのユングの心理〉。川島さん独特の美意識、気品感覚によって選ばれていますね、「他の固有名詞で代替可能だろ」っていう批判をきいたことがありますが、やはりここが「ドストエフスキー」とかじゃ全然だめで。肉料理に花を散らすような手つきに惚れました。もちろん肉料理は連作の、花はフロイトやユングなどの暗喩です。
笠木 いままでよりもざっくりとした手つきで言葉をもってきてる感じがしましたね、〈われらの神が違うかなしさ〉とか。この連作わりと読みやすかったし好きだったけど。
藪内 それの反面の話だと思いますが、ちょっと卑俗な批評語で言うと分かりやす過ぎる、理が付きすぎてるって歌が多かったです。〈てのひらでとけてゆく雪をまぼろしのようだといえばきみはうなずく〉とかもですね、「まぼろしのようだ」っていう安易すれすれの直喩に「きみはうなずく」っていう結句をくっつけてくる。下句のところでぽんと投げ出してくるような歌が多いなあ。他には〈おもうことすべてきみに繋がる〉〈死ぬときはだれでもひとりなのだと若き神父はしずかにいえり〉とか、J-POP的なものもある。〈なぜかおもった〉の「なぜか」って表現がすごく甘いとか。
笠木 まあ〈死ぬときは…〉とかはそうだけど……でもそれ自体が悪いということではなくて、ただ安易に陥ってるのはそれはだめなんだけど、するっと言いつつ他のところではちゃんと気を配って抑えてる感じがする。例えば〈てのひらで…〉の歌だったら「とけてゆく」の〈ゆく〉とかがよくて、まあてのひらの上の雪はすぐとけるんだけどそこにちゃんと時間経過はあって、そこをちゃんと見ているという気がする。この〈ゆく〉が入っていることで歌が〈慣用〉を抜け出し、「きみもうなずく」にしても説得力が生まれているんじゃないかな。そんなに俗っぽいとは思わなかったけどなー。普段の生活を生きていくなかで心が動くときって、何かきっかけ・予兆みたいなのがあって心が動くときばかりではなく、さらっとよくわかんない流れで心がどうしようもなく動いてしまうってことはあって、そこらへんを掬い取ってきている感じがすると思うんだけど。ぎりぎりのほそいところで「なぜか」としか言えない〈なぜか〉っていうものがあって。
藪内 うーん、まあこの頃は〈大きな文脈〉がない人っていうのが結構出てて、そういう生活の心情の微細な所から詩を汲み取ってくるようなタイプでしょうけどねえ。
笠木 そういう汲み取り方は、それはそれでとても禁欲的で魅力のあるかけがえのないものだとおもうんだけど。
藪内 言葉のひとつひとつに負荷がかかってないですよね。いままでの例えば穂村さんとかみたいに言葉に強い負荷をかけることによってポエジーを産み出してゆくのではなく、逆にあえてかけないということによってポエジーを香らせてゆくっていうやり方なんでしょう。
 そういえば文語が、この頃の口語使いの若手のひとたちに混ざってきているじゃないですか、そういうのは…どうですか?
笠木 川島さんのはそういう傾向とはまた別だと思うんだけど。
藪内 そうですか?
笠木 だから藪内くんはこういうのとか嫌なんでしょ?〈冬の野に降りしきる雨 この国に核の傘という言葉ありたり〉の「ありたり」みたいな。
藪内 なんか違和感があるなあ…。
笠木 僕らの年代だとさあ、国語の教科書とかに俵万智とかが載っててさあ、どちらかというと口語が先にベースとしてあって、文語を使うってのが逆に作為というか策略になってるよね。たぶん若い人で文語を使っている人はそういうひとが多いと思う。でも川島さんの文語はより内省に近いような、自分の心の声に近い形にしていく結果でこういう文語になるんじゃないかなという気がする。僕らは考えるときにもつねに口語でやっているわけではなくて、その言語が文語であるってときもあって、それをそのまま持ってきてるって気がする。だから川島さんの文語は敬虔さの表れみたいな感じがするんだけど。
藪内 うーんでもやっぱり変な感じがするなあ。〈光りつつあり〉とか…。
笠木 でもさ、川島さんの作風だとすっきりとした文語は合わないわけじゃん。使いこなせてる文語だと合わないと思わない?
藪内 使いこなせてないのがいいんですか?よっぽど上手くやらないと口語のなかにガチ文語が混ざってるっていうのは…。
笠木 でも上手くやったらただの上手い文語の歌になっちゃうし。〈テーブルに置かれた鍵がまよなか答えのように光りつつあり〉これもそのまま書いてあって内容としてはよくあるものなんだけど、事象とか現象とかそのものがありふれていても私にとって些細だけど特別なんだ、っていう凸凹感、それを出すための文語なんじゃないかな。たとえば川島さんの歌は字余り字足らずとか定型にあふれていくような歌が多いけど、それと同じレベルのものな気がする。
藪内 どうでもいいですが結句ばっかりですね、文語。最初口語だと思わせておいてなめらかに進んで結句で裏切る、みたいな構造なのかな。
笠木 致命的じゃないんだけど、ささやかに裏切られるっていうのがミソなんじゃないの?川島さんの作風として。別にブイヨンの脂がスープに浮いてたり、旦那の語源がダーナ(布施)だったりしても、わたしの生活とか人生に直接被害とか影響があったりするわけではないんだけど、それが〈私〉の感受性にとってささやかなささくれであったりする。そこを拾ってきているわけで、それが破調であったり、この文語であったりする。
藪内 成程。
笠木 だから「文語を使うぞ」と思ってつかっているわけじゃないと思う。
藪内 そうかなあ。逆だと思いました。〈隣り合う少女と淡く触れていて京王線にゆられるわれは〉すごい良い歌なんですけど、まあ「淡く」がいいのかな。
笠木 少女と、の「と」がすごくいい。
藪内 ああ、少女「に」じゃないんですね、少女「と」繋がっている的な、双方向の関係性みたいなものまで醸し出している助詞ですよね。でも「ゆられるわれは」がねえ…。
笠木 ああその文語を使おうと思って使ってないっていうのは、私は文語というものを使いたいんだ、というのじゃなくて、文語は手段でしかないので、っていうスタンスというか。
藪内 ああ、なるほど。自分はこれでいくんだ、っていう一貫した主義みたいなものではなくて、ここではこの言葉がぴったりくるからってことか。
笠木 いま私が選びうる最善の手段としてこれをつかっています、という感じであって、文語そのものへの嗜好があるわけではないよね。で、藪内くんからすると、そこが気に入らないのかな。
藪内 だから、借り物の表現な感じがするっていうことで。「隣り合う少女と淡く触れている」っていうモチーフは川島さんワールドなかんじで、女性的なわかもの感にとても惹かれるのですが、そこで急に「ゆられるわれは」っていうある意味マッチョというか、そういうものが出てくる。そういう借り物文語的ノイズが各所にみられるのですが、それはあんまり成功していないと思う。もっと一貫して女性的な雰囲気のまま最後まで流すべきだった。
笠木 でもそれだとやっぱり脆弱すぎるんじゃない?通り過ぎちゃうというか。「淡く触れていて」の感じのまま終わってしまうと、そのことを肯定するだけで終わっちゃう感じがするじゃない?淡く触れているんだけど、そこにべつに救いがあったりするわけではないよという感じがするかな、「ゆられるわれは」とか書かれると。
藪内 それを口語で言ったらいいのにと思うんですけど。文語で書かれるとやっぱりそれ以外のニュアンスが含まれちゃうわけで、文語はいろいろなものを過去から引っ張ってくるので。その過去から引っ張ってくるものが、川島さんの作風ではかなりノイズになっちゃうんですよ。ピュアなところに雑念、ケガレみたいなものが混ざる感じがして。
笠木 フロイトとかユングからは連れて来ないの?
藪内 この「フロイト」「ユング」とかはある意味で別の人にも替えられるじゃないですか、それは「引っ張って来てない」ということの表れで、なんというか華麗な名詞を散らしてるっていう意味でしかない。かなり強引に言うと。この「フロイト」とかが本来持つ意味でポエジーを立ち上げてるわけじゃないですよね。このフロイトとユングは一首にスパイスをかけてるってイメージでいいんじゃないでしょうか。
笠木 歌の中で、すごく凝縮された〈今ここ〉を出すことによって一首を完結させるっていうやり方もあると思うんだけど、川島さんの場合は〈今ここ〉だけで終わりたくない人だと思うんだよね。〈わたしたちスタンダールを読みあったりしながら惹かれあったりもしたね〉っていうのも、「惹かれあったりもしたね」とだけ言うとそれは全然無力で、それが分かっているからスタンダールを読みあった、っていうことが〈今ここ〉じゃないところに手掛かりというか裏付けみたいなものを求めてるような感じがして。
藪内 今、今、のパラパラ漫画じゃなくて、過去とか未来をみていくっていう…。
笠木 そうそう。
藪内 それと関係ないかもしれませんが、同号、吉田竜宇さんの〈海冷えてストップウォッチで10.00秒を測るあそびをまた続きから〉、このあそびには永遠を感じるじゃないですか、いつまでもやっている感じがする。その永遠に続くことをポエジー化していくっていう若手の趨勢、大森静佳さんの評論を引用すれば「一瞬を信じないということ」のひとつなのかなあとも思いました。
笠木 そう、大森さんの時間観とも感覚的には似ていて、自分とか恋人の死語のことを詠うとか、自分の生まれる前の恋人と光を詠うとかね。〈今ここ〉だけを詠うことの限界みたいなものはあるんじゃないかな。
藪内 まあそういう一瞬を切り取っているわけではない歌ってのは過去にもあったんでしょうけどね。たとえば塚本邦雄の〈革命、それも遅し畳をかきむしりみどり児があやつれる歩行器〉とかみても、一瞬って歌ではない。――はい、まあ僕の意見はだいたい出た感じで、基本的には良い連作だったんですけど、おりおりに出てくる言葉を手ばなしている感じと、文語の混ぜ方に違和感があったということです。〈とつぜんの雨にからだは濡れながらおもうことすべてきみに繋がる〉、「ながら」っていうアララギ的な上手い繋げ方とかが確かにあるんですが、「おもうことすべてきみに繋がる」っていうのが、何か適当に投げたような感触を受ける。やっぱり歌人としての自分から読者の方に言葉を投げ捨てるっていうのはあんまり良くなくて、投げすぎず自分に引き寄せすぎずっていう緊迫感のあるところで言葉を選んでいくっていうのがとても大切だと思うんです。
笠木 例えばその歌だったら「おもうことすべて」のところを別の具体的なものにすることも出来るんだけど、その方がより短歌的なまとまりはよいのだけれど、でもそうすることでそがれてしまう何かを捨てたくないんだよね。





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