夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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短歌日記3
短歌日記3

2013.11.22
「鬱くしいとすら言えないゲロみたいな感情」に戸惑っていたら、時計の銀針は零時をとうに回っていた。白い棚の下から二番目より取り出した、植物のプリントが色とりどりに圧されているカップに白湯を注ぐと、カップの中では光が混ぜられながらぱちゃぱちゃとはしゃぐ。そのうちの一滴が親指の付け根に跳ねとんできて熱みを感じた。0.001ミリグラムほどに縮小した筈の「感情」の半減期は七日、しかし半減するほどに「薬は少量で済むやつが一番強いもの」(432日前の短歌日記)という言が蘇ってきて、私の心胆を震え上がらせる。0が一つずつ霊になる。眼前のデンファレが花瓶の頸の上に揺れて、あまりにも嫌いなひとの容姿を思い浮かべるたび、はらわたはずたずたに腹部内容物によって裂かれ、精神は精神自身をその脆さによって刺しつのり、ほの明るさを残して去ろうとするその姿に、手を合わせて祈り、みんな死ねという結論に到る。
〈硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ——浜田到〉

 *

今日もスーパーで簡単に野菜などを買って、夕食を二品ほど作ってみた。茹で蛸と大根とふきの檸檬醤油風酢の物。トマトと玉葱の微塵切りを煮ただけのナチュラルトマトスープ。前者はふきを煮すぎて食感が悪かった。後者は粉チーズをたっぷりかけて食べるのが旨く、わりあい好評であった。

大根をうすき銀杏に切るときの刃はほのしろきゆきに濡れたり


2013.11.23
今日の料理は金平牛蒡(ほぼ習得、美味しかった)、アボカドとウインナーとブロッコリーのニンニク炒め(にんにく臭く、アボカドが苦かった)、ほうれん草のおひたし(だしに漬けたが、つけないほうが好みだった)。その後、スマブラの練習。ヨッシーの調子がよく、ピカチュウを何度も回転ずつきで屠った。

不愉快な電話を終へてどうやつても即死コンボがしづかに決まる


2013.11.24
延滞の本三冊(吉増剛造『無限のエコー』、荒川洋治『渡世』『心理』)を返却するために電車に乗り、京都府立図書館へ。東山駅から徒歩で本を返却しに行き、京大短歌の歌会のためその足で二キロほど先の京大サロンへと歩いた。歌会後はケニアという定食屋へ。左では頬と乳首の関係、右ではAVの話が盛り上がっていて、いいかんじだった。数学の発表用意は今日もやばい。

抜き身の刀のやうにさびしくゐることも愛とおもへば純銀だつた


2013.11.25
Humphreys『Introduction to Lie Algebra』を借りるために大学の図書館へ。寄り道をして生協で角川「短歌」、『岸辺露伴は動かない』を買う。支払いのときに学生証提示を求められて、傘と財布とイヤフォンを持ちながら学生証を出そうとしたら絡まってお金をぶちまけてしまった。附属図書館に移動して「短歌研究」12月号にざっと目を通す。座談会の記事には「大学短歌会には大学から数十万クラスで活動費が落ちている」という事実誤認があった。雨の上がった構内を歩いて理学部図書館にゆき、冒頭の本を借りたのち、数学図書館でBorelの『Linear Algebraic Groups』を探すが見つからず。

 *

雨は上がっていたがまだ余韻が降っていた。ふる、という行為性はたとえば魯迅にルーシュンとルビをふる。先ほどまで雨に打たれていた地面はまだ振るえており、出るとそこには冬のはじまりの雨独特の振動がすべての樹に、艸に、壁に、花に、地面に内在されていたが、人だけは暗い眼を俯けてひとりひとりを歩いていた。暗い風景は胸につめたい天秤をかたむけて、こぼれる、わたしたちはおそらくひとりひとりの眼のなかにひるがえっては燃える扇のまたたき、それは燃え尽きることがない。わたしが出町柳駅から帰ろうとするとき已に時計の銀針は5を刺し示しており、「動きすぎてはいけない」、「岸辺露伴は動かない」、地下鉄は停車する、心は停止してゆく、銀杏だけはまだ燃えている、それがきれいで、みんな死ね。

ごめんねごめんね言葉は殺せないだからきみは銀杏にすることはできない


2013.11.26
三時間ほど睡眠をとって、二限の微分幾何学へ。朝からの急激で波状な嘔吐感をなんとかなだめながら大学へゆく。蒟蒻ゼリー、綾鷹を買う。間の悪いことが重なって、レポート課題を書き写せなかったり提出できなかったりした。嘔吐感はそのままに、帰宅する。なにも口に入りそうにないので、昼食はフルーツヨーグルトに。胃薬を服用して随分楽になる。数学の予習をしていたら夜の帳が降りてきたので、夕食の準備。きんぴら、鶏の生姜焼き、アボカドとトマトの檸檬醤油和え、ほうれん草のおひたし、コーンスープなど、簡単な食事を用意する。全体的に出来上がりは硬かった。

 *

もっとしずかににくしめばよかったのだ。銀杏の葉の跫音が近づいて遠ざかる、近づいて遠ざかる、金色の葉の音。昼の雲から洩れる陽のなかで夜の月の光のなかでたしかに底低い音を引き摺っては遠ざかる、いきを鳴らして、嘔吐の寸前に咽喉は螺旋をなしてしぼられる純白の弓の弦、純銀の漏斗は空に設置されていて次々に嘔吐感、をおとしては私はそれをこぼさないように拾う。音は感情のすべての毛細血管を支配する。もっとしずかにくしめばよかった。俎板の上に置いた冬の檸檬に銀の刃を差し込めば、刃はうすく濡れて、刃をぬぐえば布が濡れて、音はすべて濡れていて、手はほのかな酸味にぬれていて、肉体や皮膚の内部はぬれていて、愛は滅びなさい。すべて。すべてです。みんなしになさい。1806、夜が街へと刺し込まれていって、あえなくそれぞれの窓たちは、痛みにたえ、みずからの営みを「発光」させていった。その一片に、彼女がひとりの男の上にたつ風景がある。もっとしずかにくるしめばよかった。

眼窩へと刺しこんでくる冬の街 Zigzagにゆくんだ、さう、zigzagに


2013.11.27
11時に起きるが、よく考えると月曜日に授業が振替であることを思い出し、正午過ぎまで二度寝する。昼食に堂園パスタ(堂園さんに教えてもらったオイルサーディン・パスタ)を作る。誤って唐辛子を食べてしまう。胃の調子は最悪ではない。大学で18時までゼミ。修論にするBruhat decompositionを発表する。固有値によって収束が証明できたりと、意図の外の収穫があった。夕食はタイ料理。鴨川沿いの店で鶏肉のバジル炒めとタイのご飯、目玉焼き、揚げ春巻きとスイートチリソースなど、定番を頼んだが、とても美味しかった。

 *

古書店でまた幾つか本を買った。ドイツ・ソヴェト詩集、ハイネ詩集を読むのが楽しみだ。——人間ども、二本足の蛇め、きさまらがズボンをはくわけはよくわかってるぞ! きさまらはそのつるつるの蛇肌を他人の毛皮でかくすんだ。——アッタ・トロル 夏の夜の夢(ハイネ)

たましひが荒ぶるまへのたまゆらの戸惑ひ 花にながす電流


2013.11.28
正午過ぎに起床、即座にお腹を壊し、トイレに1時間立て篭る。その後もだらだらしていたら、16時になってしまった。夜食は天下一品、知恩院前店。帰りの駅でカッコいい外国人カップルに淀屋橋への行き方を尋ねられたが、英語は全く分からないので、「This train! Change train! Limited express!」と適当にまくしたてて送り出した。

 *

胸くそ悪いひとつの宝石を渡されて、人差し指にくつがえすとそこには林が写っていた。つまびらかにやってくる性の嵐をわずかながらの手のひらとゆびの尖でそぎ取って、樹は立っているのか。傘もささずに。樹にながれる水滴は黒糖のあまさだが、すでに暗い眼をみひらいていた。

もう誰にも触れられぬやういちまいの銀貨を落とす雨後の林に


2013.11.29
正午過ぎに起床、同時にテスト期間らしい弟が学校から帰ってくる。堂園パスタを作り、昼食とする。犬にパスタを一本渡すと食べはじめた。スマブラの自主練、あまさわループがだいたい出来るようになった。角川さんから電話があり、二つ忘れていたことを思い出す。至急、原稿とメールの返信。珈琲は勿論胃に良くないのだが、この頃は紅茶すら飲めない日が多い。しかしもっとひどい日になると、紅茶の代わりの白湯ですら胃にしみて痛むときがある。今日がそのような日だった。夕食にはきんぴらと鮭の檸檬風パスタ、アボカドのサラダなどを作った。千葉雅也の対談が京都造形大であると聞いていたが、結局行けず。涅槃交響曲を聴きながら、「胸くそ悪い宝石」をながめたり、電灯に透かせたりして過ごす。

 *

もし、「作品」がわたしたちのたましいであったなら、わたしたちはとてつもなく命知らずなことをしている。こんなところに差し出して。

 *

詩でもコピーでもシェイクスピアでも、掛詞という技術はふつうに使われるのに、なぜ「現代」短歌では用いられることが少ない(もしくは先鋭的なレトリックとして認識され、一瞥される)のだろう。HUNTER×HUNTERの「殺して夜る」、という怒りをもって思う。

こふこともこはれることも蝶番ひとつをもって冬の丸椅子

2013.11.30
昼、明日は京都水族館で吟行だが、夕方から抜けて友人とスポーツに行くことになった。夕、食卓には皿がのりきらないほど並んだ。鶏胸肉の檸檬揚げを久しぶりに作る。夜、安田さんへ送る「率」4号を封筒に入れる。

みな冬へむかふ電車にゆられをり星のまばたきにすら嘔吐し


2013.12.01
アクアリウムには一時間半遅刻し、みなに追いつく為に殆どの水槽を一瞥しただけで通り過ぎる。きっちりと壁に埋め込まれた直方体の水槽は、それぞれの生物にとっての最小限のサイズに調整されているようで、窮屈な瑠璃色の檻を観ていると、「私」が「私の皮膚」に常に囲まれているという絶望的な事実を思い出してしまい、それを振り切るようにして皆の許へ向かった。

 *

高校の友人の失恋飲み会に参加。その子はやめたほうがいいなあ、というひとについての恋バナを聞く。故意花でしょうね。

アクアリウムに眼、眼、めんとむかつてはいけない特に蛸のまへでは


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短歌日記2
2012/12/07

 俺たちを目ざめさせたものは――森には再び影が忍び寄り、焚火の火は消え、俺たちが目を開け、溺れた者が水面を見上げるように、梢に厚く明るい光を見上げたとき、俺たちの目をさまさせたのは、狼の群れの吠え声だった――。

「いや、そうじゃない」と言いながら、牧師は不意に立ち上がった。「二人はその後、いつまでも幸せに暮したんだ」
「いいえ、違います」それが私の返答だった。(D.H.Lawrence「ステンドグラスの破片」)

吐瀉物のごとくひかりの雨はふり噓をつくな永遠の愛なんて


2012/12/08

君も海も、同じほど、陰険で隠しだてする(『ボードレール詩集』堀口大學訳)

ロレンスにとって小説を書くという行為が、言語以前の感情のカオスを表現する営みであったことを示している。(「D.H.ロレンスの笑う身体と脱ロゴス化の欲望」三宅美千代)

言語以前の感情として雪はふる朝なればただ眩しむばかり


2012/12/09

次の日の夜、俺は馬屋に火を放った。火は母屋に燃え移り、屋敷の窓越しに、赤い焔が立ち昇るのが見えた。誰も彼も、命からがら逃げまどっていた。主人も、仰天した大勢の人間のなかの一人でしかなかった。凍えるほど寒かったが、火の熱のために汗をかいた。彼らはみな振り返って火事を見ていた。(D.H.Lawrence「ステンドグラスの破片」)

なんという恩寵
人は
死ねる         (谷川俊太郎『minimal』)

冬の星、すなはち遠き火事たちをみながら愛のつばさ伏せたり


2012/12/10

「言葉が人間を操っている」  (吉川宏志「短歌」短歌年鑑2012「言葉と原発」)

また、蛇は脱皮するので原初の時代から、不死の象徴とされている。よって神格性を帯びた大蛇は腸と似ているとされ、「大地の腸」と同一視された。(「D.H.ロレンスの「蛇」の詩―生命の王者への懺悔―」鈴木悟史)

「核納容器は一億年に一回しか壊れない」     (詠み人知らず)

夕焼けは一億年に一回も壊れないのに薔薇のあかるさ


2012/12/11

つまり、世界内では、事物相互の限界がきびしく区別されて居り、或る同質的空間が肯定されていて、事物は、そういう状態の中で、とらえられ、利用され、より確かなものにされるために、物品(オブジェ)に変形される――だが、想像的空間においては、事物は使われもせず使って損耗することもないとらえ得ぬものに変形される。(モーリス・ブランショ「作品と死の空間」)

「つまみ上げて、野原に置いてくるんです」/ドアは決して開けてはならない/私たちが愛情を抱いて近づくと、その瞬間小さな野生の動物は動きを止め、息を止め、黙りこくった仮死状態に陥ってしまう。/暗闇が落ち、父は仕事に出かけて行った。/八つ裂きにするのだろうか。/片側の胸だけが、かすかにピクピクと命にふるえている。/もう我慢できませんよ。砂糖壺に/入るなんて!」母は片手で/なかを覗きこんだ/電気のように機敏なアドルフには愉しかったと見え、/その瞬間にカップがひっくり返った。/お母さんが悪いんだよ。/こんなことには―― (D.H.Lawrence「アドルフ」)

空間のなかにしづけき卓上がありて林檎が停止してゐる


2012/12/12

未来では星が消える。夜の空からも昼の空からも、消えて、光がないから、いつもなにも見えなくて「いますか」「いるよ」「いますか」そうやって何べんもだれかがそばにいることを確認して安心して、あるときくだらなくなる。そうして片方が眠り始めると、もう片方は、「いますか」と尋ねたまま、星のない黒い空を見る。(最果タヒ『空が分裂する』)

 僕は僕の歩みを決定する。だが他人にとって僕の歩みだけが僕だ。これは魔法のやうに僕を怖ろしくさせる。/絶望はその冷酷度を増した。(吉本隆明「エリアンの感想の断片」)

愛情をひとつ滅ぼすためにゆくみぞれをわれの翼となして


2012/12/13

 海辺に程近い小綺麗な一軒家である。窓際に坐った小柄な若い男は、自分は新聞を読んでいると思い込もうとしていた。時刻は朝の八時半頃で、窓の外には、朝日を受けたグローリー・ローズが、火の小鉢を宙に傾けたように咲いている。若い男は食卓に目をやり、柱時計に目をやり、それから自分の大きな銀時計を見た。男の顔に硬い忍耐の色が現れた。男は立ち上がり、壁にかかった数枚の油絵に視線を向け、そのうちの一枚「追いつめられた鹿」を、敵意のある眼で丹念に見た。ピアノの蓋を開けようとしたが、鍵がかかっていた。(D.H.Lawrence「薔薇園の影」)

ドアを開けたら

 しづかに海へ

降つてゐて

(雨はみぞれに)

(みぞれは雪に)



2012/12/14

海はすべての
死者の夜の
内部となってながれた(辺見庸『眼の海』)

寄りながら暗き言葉をうちかはす我らにふれて焼死せよ雪


2012/12/15

I came down the steps with my pitcher
And must wait, must stand and wait, for there he was at the trough before me.(D.H.Lawrence)

これはロレンスの「蛇」という詩、つまり言ってしまえばHeとは蛇(Snake)であり、(実体験が背景にある(Large yellow snake)らしいが)蛇が主題と言える詩なのである。しかし、このmustという強い表現は一見蛇に向いているように見えながら、実のところ〈私〉に向いている。不意に現れた蛇という偶然性、それは聖性の喩であるが、それを自身へのエコーとして回収してしまうmust。

〈わたくし〉はほんとに強い敵なのだ夕べの雨にひしひしと思ふ


2012/12/16

 美しい女性がいた。人生の初めには恵まれた条件が揃っていたのに、彼女には運がなかった。愛し合って結婚したが、その愛も粉々になってどこかに消えた。(D.H.Lawrence「木馬に乗った少年」)

死にたくて来た訳じやない砂浜にひろがる海はされど凍蝶


2012/12/17

 ロレンスは、肉体のことを「暗黒の陸地」と言った。その陸地には、剥がすことの出来ない草の根がびっしりとしがみついていて、生命を身体の末端にまで送り続けているのである。今夜は風邪気味だからだろうか、私は、草の根がきゅうきゅうと締め付けられるような、むかむかとした不快感が脚全体を覆うのを感じている。

 そんな不快感の籠のなかにいながら、私の感情は或る二つのことがらを思う。思う、というよりも、自然にその方向を私の精神が見やってしまうのだ。まるで風の中の風見鶏のように自然に、そして、頑なに思ってしまう。一つは、自民党の再勝利。もう一つは、それに関する発言を後輩に飛ばしたところ、無視されたということ。並びに、その付近の発言に対して、幾分なぐさめてくださった方がいたこと。とりわけ後者のようなことは、私は基本的に忘れない。少なくとも五年とか六年スパンでは忘却しない。嫌なことをずっと憶えているという点では蛇であるが、恩を忘れないという点では犬である。

記憶とは私であるが雨でありしづけくわれの脚を冷やしき


2012/12/18
 
 古池や蛙飛こむ水のおと

 芭蕉のこの句の凄さは、切れという思想である。古池を読者が意識へと具現化すると同時に、切れ字の「や」が挟み込まれて、蛙の飛こむ音がする。ここで繊細な感受性を持つ私たちはおそるべき事に気がつく。蛙の飛こんだ音にしずかに「水」という質感が加えられて、「蛙飛こむ水のおと」が現実の感覚を帯び始め、それと同時に、「古池や」が時空の果て、無限と永遠の狭間へと飛んでいってしまうのである。この「古池」はおそらく、実在を詠んでいる訳ではないだろう。永遠の存在としての「古池」なのだ。この句の永遠性と一瞬性の葛藤、邂逅、その総てはたった一文字の思想、「や」から始まったのである。

ぬばたまの知の拒食症きらきらと蝶を放てば放つだけ死ぬ



2012/12/19

ゆっくりと時間をとって、過去に戻った人間のように、彼女は一方の小径を下って行った。ふと気がつくと、母親がときおり嬰児の手を愛撫するように、ビロードのような重たい真紅の薔薇を撫でていた。少し前かがみになって匂いを嗅いだ。それから、夢現でふらふらとさまよい歩いた。ときどき、焔の色をした匂いのない薔薇に注意を惹かれ、佇んで、自分にはその花が理解できないという風に凝視した。(D.H.Lawrence「薔薇園の影」)

冷たきは冷たきままに咲く花のそれで良いんだだから綺麗だ


*短歌日記第二部は、『ロレンス短篇集』(井上義夫編訳)を横に置きながら書きたいと思います。
短歌日記1
2012.10.02

「塔」の年間回顧座談会、で兵庫の芦屋まで行つて来た。意外と京都からでも近い。

睡眠も食事もせずに此処に来てしやべりつつ食ふチョコの一かけ



2012.10.01

三時からのゼミで四時間しやべり尽くした後に、Tさんに角川賞用の写真を撮つてもらつた。何気なく撮つた最初の一枚がもつとも良いかんじ。

そしてまたパスタとピザを食べにゆく月夜のとても内輪な儀式



2012.09.24

すごい夕焼け。すごい、といふ言葉。

言葉は意味の柩?それなら担いでさ、行かうよ小さき花こぼしつつ



2012.09.22

何もしなかつた一日。テレビで中国の事などが報じられている。

戦争を知らぬ人らがいかりをり(怖れだろそこは)のどぼとけ紅き



2012.09.21

神楽岡歌会。角川祝いもこめての飲み会を一時過ぎまで、(当然)帰れないのでカラオケで朝まで歌ふ。京都駅で朝ラーメンを食べて帰宅。

瞬間にこそ幸福は宿らむか梅干しの香のやうな月光



2012.09.19

京大短歌の歌会。終了後は将月へ。何故かYさんに車で自宅近くまで送つてもらつた。

星しづか川のしづかそれなのに心が超高速でうごいて



2012.09.18

無計画性。偶然性に、心理の深層に、世界に身をゆだねること。(昼食を摂りにでかけたら、雨が降つて来た、適当にコンビニを探して傘を買つた。そこで京大短歌十八号における致命的なミスが降つて来た、それを脳で考へながら昼食を摂り、帰つた。)

傘買ひて出ればゆるまる雨だからもうすこしだけあかるく降つて



2012.09.17

「君がむきになって僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」 「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」 「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが一番強いものだからね。 ―カラマ(ドストエフスキーBot)

ドストエフスキーも橋下もきらひ、そんな僕が汲む一杯の粗茶



2012.09.16

本のなかには、どんな季節だつてある。「春の雨こすれるように降りつづくほのあかるさへ息をかけたり」(内山晶太『窓、その他』)

数学の予習に過ぎし一日をふとよくみれば秋の立つ風



2012.09.15

朝から塔の編集会議、塔の歌会、塔の飲み会。ビールサーバーをこぼしまくる。

妥協する事も大事と言はれたり(其れも然う)雨にくらき空見つ



2012.09.14

犬の散歩に出るが、急に雨。

雨は降ることをわすれて降つてゐる手紙を書いて夜は眠つた


*ふらんす堂HPの「小島ゆかりの短歌日記」をリスペクトしている私が急にはじめる突発企画です。




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