夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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きょうたん歌会2012.04.28
今日は京大短歌の歌会。9名。春と初夏のあわいのような日。

ついに18号が完成したので本郷短歌と合わせてみんなで読んだり、O原さんいないの何でなんですか、と後輩に何度も聞かれたり。司会の私が歌を作るのが遅れて、(東大路あたりを散歩しながら考えたんだけど、なんか駄目だった。)はじまるのが3時ちかくになったのは申し訳なかった…。

歌会の批評はいい感じで、助詞力の高いかささんが細かい助詞を攻め、新人さんたちがずばずば言いたいこと言って、他のひとはまあオーソドックスにって感じ。新人さんたちが和歌とかを諳んじていたり、ちゃんといい感じの意見言ったりで優秀だった…。Tさんの弟さんはクリティカルな読みばっかりするし…。なんとも頼りになる。
それにしても、こまかいところにこだわるのはきょうたんの美点ですよね。

個人的にはたたさんの名前の由来が中国語だってのが知れて良かった。
ああと、たたさんの連作批評会もすこしおこなった。良質なユーモア。
眠いので文章が変だけどこんなところでした。
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ミルク、肉と花
秩序コスモスよ ミルクのあとは肉、菊と食べて贖罪の散歩に出でむ

                       岡井隆『夢と同じもの』


――われわれ人間は夢と同じもので織りなされている、はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ―― 「テンペスト」

 岡井隆『夢と同じもの』は第16歌集。〈罪〉が濃厚にかおる歌集である。本当は、それが何の罪であり、どのような私的背景*を持つのかを論じなければ、岡井の歌を読んだことにはならないだろう。が、率直に言ってその方法を私は好まない。ひとまずは私小説的な文脈を、身をよじるようにして躱しつつ、基本的にその文に書かれているものだけを見つめて、書いていきたい。これはごく私的な、メモでもあるのだから。
 秩序コスモスとは前歌の詞書きの〈カオス理論がはやるご時勢だ。〉という含みのあるフレーズに触発されて出た言葉であると同時に、みずからの罪をなぐさめるための一つの方法論でもあるのだろう。毎日の日課のようなもの、習慣(ハビット)が苦痛をやわらげるということはあり、それはこの歌の場合は食事と散歩であった。さて、この習慣(ハビット)のなかにおいてはミルク・肉・菊がまさに調理的に混ざりあっている――肉と菊の脂ぎった華やかさにマイルドを流しこむミルク、ミルクと菊の嫌な暗喩とナルシーに重みを加えている肉、そしてミルクと肉に文字通り華やかさを飾りつける菊――という相互扶助のかたちで。だれかといることを想像させる花付きの肉(ステーキ?)にミルクというおしゃれレストラン的な食事と、一人(=独り)で行うであろう「贖罪の散歩」という組み合わせにはいささか整合性に難がありリアルで無い、という欠点を有してなお、この食材(贖罪)の組み合わせの妙は称賛されるべきものであろう。
 彼一流の技術は「のあとは」を含む中句「ミルクのあとは肉、菊と食べて」、すなわち名詞を名詞へとうつす際の巧みさにみられる。粗雑にして粗悪な模造品を作ってみよう。〈秩序コスモスよ ミルクをのんで肉を食べ菊を食べ贖罪の散歩に出でむ〉この愚作をみたときに逆に照らし出されてくるものはまず「のあとは」という言葉の絶妙さ、によって〈飲む〉という行為を暗に含みつつ直接は言わず、しかも「は」という奇妙な助詞(ふつうは「に」だろう)を採用することで不思議に生じてくる深さである。私は今、この〈は〉は深い、と言ってしまったが、何故なのだろうか。理由を考えながらゆっくりと注目されてゆくのはまず韻律のこと、atohaというa音の乾いたあかるさ、そう考えて上句を見かえすとkosumosuyo mirukunoatohaであり、母音はououo iuuoaoa、「あとは」にいたるまでは沈んだ声調である。そう深読みしてゆくと、確かに「ミルク」にはどこか沈鬱なイメージがまとうのに対して、肉・菊には或る種のカタルシスが伴う。いや、菊は微妙かもしれないが、腐っても花(こういう言い方は無い?)であるので。そのカタルシス=肉・花・贖罪の散歩、へむかうためのささやかな踏み台として、このa音が無意識下に配置されているようにみえてくる。――などと言った後ではいささか格調に欠くかもしれないが、下句の「出でむ」、出よう、という意志へと遠く呼応しているのかもしれない――いや、「肉、菊と食べて」という句をいわば「宙に浮かせる」効果もあるのだろうか。「あとは」の「は」には確かに意志のニュアンス(これから肉、菊を食べよう)がただようが、しかしもう既にそれを行った(肉、菊と順に食べた)というふうにも読めないことはない。その或る種の不安定感、つまり中句をどう解釈するかが、微妙なレベル、読者によっては気付くことなくスルーしてしまうであろうレベルで分岐しているということが、この歌のおもしろみのひとつになっている。その解釈のふくらみが――良くも悪くも、ではあるだろうが――「は」が深い、という感想に繋がっているのだと思う。
 名詞と名詞をわたす巧みさは「肉、菊」の「、」にもあらわれている。先と同じく言外に〈肉を食べ〉、しかし表現としては「、」という一文字(文字というにもおこがましい小ささであるが)として書きおさめているのがこころにくい。ところで別の視点――韻律的には初句の終わりに切れ、もう一度この「、」で切れる(もっといえば三句目の終わり、そこで多くの読者は一拍分の呼吸を置く)からなかなかにすっきりとしない運びではあるか。もしくはそれがこの歌の罪の意識の苦しさに合っているのか。そういえば肉nikuと菊kikuはnとkという子音の硬柔の差をのぞいて奇妙な一致をみせているが、これは「肉、菊」というフレーズの読みにくさを呼び起こす。すかさず読みにくさ、生きにくさ、罪、というふうに私のなかに思考の連鎖が起こる。まあ或る意味では短絡的なのかもしれないが、これはこれで一定の効果を上げていると感じた。
 そろそろ、私の微に入り細に入る文章の書き方にうんざりする読者の方がおられるかもしれないから、他の部分に目を移すことにする。しかしここで宣言しておくが、私は〈微bi〉は〈美bi〉に通ずる、という強い信念を持っている。特に、短歌においては。
 贖罪の散歩、とはよく見れば奇異なフレーズだ。先程には習慣(ハビット)によるなぐさめが何とか、と言ってごまかしたのであるが、やはり今みなおしてみても完全には解釈しにくい。散歩することが贖罪?主体にとって贖罪にあたる何らかの行為をおこないつつ、散歩をする?贖罪reconciliation=罪を贖う(贖う=古代においては手ばなした奴隷を買い戻す=購う)こと。善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。キリスト教用語、神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義。キリスト教とその教義の中心。罪の贖い。――いまネットできわめて杜撰に、文字通り適当に引いてみたところいくつかの意味が出て来たのであるが、次の解釈がおもしろかった。「自らの罪をゆるし、生と和解すること。自らの生とかたり合い、仲直り・赦すことによって、外部にあるかのように感じていた〈敵〉を、〈罪〉を、消し去ること。」散歩はふつう、独りで黙々と歩くものである。それは同時に、自らの生と真摯に語り合う場でもあるだろう。そしてその語り合いのなかに自らの罪を赦す。ここの「罪」とはミルクを飲み、肉を食うという行為、もしくは岡井の私的なまさしくの「罪」、どちらとして解釈してもいいだろう。ともかくもその語り合いのなかに自らを赦す、ということが、「贖罪の散歩」であるのではないかと思った。


*「子供たちが受験期にさしかかったことを中心に、きびしい事どもが生起して、しばしば絶望的になった」と「自筆年譜」に書かれているらしい。(孫引きでごめんなさい。)
万来舎「短歌の庫」http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda45.html





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