夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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『裏島』『離れ島』批評会(京都)
石川美南さんの歌集『裏島』『離れ島』の批評会が、先日京都でおこなわれた。

甘めにみたりすることなく、パネラーさんたちが真摯に批判しているのが印象的な会だった。というのも、私の感覚では歌壇的にこの2歌集は好評価を受けているような感じがしていて、よさがほとんどわからなかった私はどういう点が魅力なのか、教えてもらうのを楽しみに行ったのである。

パネラーの意見では堂園さんにもっとも共感した。堂園さんは、茂吉などの歌にはまず作者から対象物への視線・関与があって、かならずそれに対して対象物から作者への反照(エコー)があるという図式を展開し、それによって〈私〉が浮き上がってくるのが近代短歌の標準的な構造であるという。そして石川さんの2歌集にはそのエコーがほとんどの場合に存在せず、対象物は石川さん(≠作中主体)が作り上げた枠のなかを自律的に動いて欲しいと石川さんに欲されながら、しかし対象物は作り上げられた世界にとどまってしまっているんじゃないか、みたいなふうにとりあえず解釈した。(後半部分は私の恣意的な解釈かもしれません。)

たぶん私がいちばん引っ掛かっているのはそのエコーが無いというところで、やはり作者の感情なり切実さなりがちょっとでも見えてこないと、世界をつくって遊んでいるだけのように見えてしまうものである。異界をつくりだすのは良いが、そのつくりだすという事自体に作者のウエイトがかなりかかっているようにみえて、その先にあるべき肝心の詩の核心、心臓部分がどうしても見えてこないのである。だから、たとえば「さびしさ」などの感情が背後に見えてくる歌(それは言葉の選択のしかたによってだけでも、表現可能なものである!)ばかりが心に残った。

他にも興味深い発言ややりとりが幾つもあって、久しぶりにおもしろい批評会であった。

懇親会は近くのよく行く店で。酒の席のことであり、あまり書くのもどうかとは思うが、からんさんがおっしゃっていた「エセ平岡直子がいっぱいいる」みたいな感じの発言にうむーと思う。魂で書くタイプってことだと思うけど。ちなみに私は短歌のために短歌を書くタイプだと。

どうでもいいが、京大短歌メンバー(大森、藪内のぞく)が松村正直さんをかこんでずっと話していたのがおもしろかった。
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連作歌会(きょうたん)
五月末までの提出物がおおすぎてあまり更新できていません…。

今日は京大短歌の連作歌会。
2~43首の連作が揃い、かなり濃密な批評会となった。
私はわせたん的というか、瀬戸さんと堂園さん(+岡井的な助詞などの微視的修辞)を混ぜたような連作を出したら、ことばあそびだよねーとかイメージがどんどん跳ぶのを楽しめばいいのかなーとか雑いかんじの評をやられてうむむ…。

他のひとの連作はまあオーソドックスなものが多く、どうなのかなあ、もっと尖った連作とか出す人がいてもいいかなあという感じでした。きょうたんはあれですね、地道な表現を磨いていくひとがけっこう多くて、もっと詩的エネルギーが満載の実験的で変態な連作とかを出す人がでてくるといいよね。今のきょうたんでまわりをざっとみてもそういう表現への果敢な挑戦をしてるかんじのひとはいないような気がして、OBだったらまあ吉岡さんとかがいるけど…。まあ地味な上手さを磨くってのもすごく大事なんだけどね。もともと短歌は地味なものなので。

ていうかそもそもは実験作を出す場としての側面もこの企画にはあった気がするので、やっぱりおとなしいなあこれでは。そういえばあすは二島の批評会ですが、ぜんぜん用意できてませんやばい…。
隈元榮子『朝はめざめて』付近の雑感
校正疲れのせいか、珈琲をのんでも気を失いそうになる深夜三時。
明日の予習をあきらめ、歌集をなんとなくながめていて、
隈元榮子『朝はめざめて』にどうしても目が行ってしまう。
まだちゃんとは読めていない。
だから表題歌がどういう歌なのか、
表題にどういうニュアンスが含められているのかは分からないが、
(身近にあったあることに引き寄せすぎなのかもしれないが、)
とてもさびしい歌集名だとおもった。
「は」がさびしいのだ。
朝をめざめられなかった、幾人かをおもいだしてしまい、涙がでてくる。

雪の朝コップを出せば棚扉一夜の冷気を吐き出してくる

これは確か合評で批評した歌だ。武山さんがみつけてきたのであった。
当時の原稿をみると、「棚扉」という語がすこし変ですね、とか、
名詞が続きすぎてますね、盛り過ぎかな。とかいうことが書いてある。
日常のなにげなさを描くのがうまい、とも。
そういえばこの歌にも「朝」がある。

小学校は駅裏にあり機関車のお湯を貰って冬の掃除は

これもみたことがある。
塔の松山での全国大会で、公開歌合せに参加したときのこと。
そのときに確か、私のチームに隈元さんがいて、この歌を出しておられた。
なにを発言なさっていたか、までは憶えていない。

眩みつつ日輪さえも越えていく感覚つかみき河野裕子

これは生前、河野さんが旧月に出していたある歌が下敷きになっているのであろう。
どんな歌だったかはっきりと思い出せず、歌集に載っていないかとさがしたが、
『蟬声』にはなく、『葦舟』は歌集がみつからなかった。
(おそらく本の山の奥深くにねむっているのであろう。)

死は、ああ、日輪さへも越えてゆく…

というかんじの歌だったのだが、どうしても下の句が思いだせない。
よく考えてみると、過去というのはおもいだせないことばっかりであることに気づく。
そういえば『朝はめざめて』には河野裕子の文体がみえかくれしているな。

病巣を一日預かるデイサービスはありませんか助かるのですが
夕方には気を取り直し病巣を必ず迎えにきっと行きます


塔でみたことのある歌が続く。
もう、どこでみたのかは混濁してしまってわからない。
ばつぐんに切実な、しかもいい歌やなあと思ったという記憶だけがある。

旧月歌会をなんどもご一緒したが、ほとんど話したことはなかった。
ほそいつながりだ。
だが、歌会を一緒にやるとどこか深い、みえないところでつながってしまうものだ。
そういうほそいつながりの糸が、消えてゆくということのさびしさをおもう。
ああ、思いだした。

死は、ああ、日輪さへも越えてゆく眩みくらみて見上げるわれに
                      河野裕子、旧月歌会(うろおぼえ)


『朝はめざめて』を『蟬声』の右横にしまった。
座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――②

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座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――①
2012年5月某日

藪内 今日は18号の発送作業、お疲れ様でした。発送費用だけで2万円ふっとびました…。さて、突発座談会 笠木拓×藪内亮輔をなぜかはじめることになったわけですが、なんとここに、「率」創刊号があります!!
笠木 おー。ぱちぱちぱち。
藪内 私が裏ルート(?)で手に入れました。「率」って「町」の後継誌みたいな感じなんですかね?
笠木 うーん、だいぶ毛色が違うような気もしますね。これはただの印象で言うんだけど、「町」より女性的というか、「町」にはそんなにジェンダーとかセクシャリティーを感じるところはなかったんだけど、メンバーみんな女性的というか…そうでもないかな?
藪内 とりあえず前から見ていきましょうか。

川島信敬「クレド」

藪内 川島さんは女性的な作中主体ですね。
笠木 まあ川島さんの連作を読む時にはあんまりそんなこと考えないかなあ、でもかたいというか、昔の言葉がちょっとずつ入ってきてるね。「厨」とか。
藪内 まあ岡井隆が流入してきてる感じはしましたね。「ゆられるわれは」とか。でもちょっと不自然な感じもするんですよ。自然に出たものでない感じというか、やっぱり文語は「使ってる」うちは良くなくて、〈自分〉の本質的なところと融合させるっていう必要がどこかで生じてくる。
笠木 でもね、完全口語の文体だと、川島さんの連作では逆に作為とか手つきみたいなものが見え無さ過ぎて、でもこういう文語が入っているとちょっと、屈託みたいなものが出てきて良い面もあるなと思うな。
藪内 もうちょっと具体的な話に移りたいと思います。フロイト・ユングなどの片仮名固有名詞がときどき混じっているのが好きでした。〈ブイヨンの脂がスープに浮いており フロイトを離れるときのユングの心理〉。川島さん独特の美意識、気品感覚によって選ばれていますね、「他の固有名詞で代替可能だろ」っていう批判をきいたことがありますが、やはりここが「ドストエフスキー」とかじゃ全然だめで。肉料理に花を散らすような手つきに惚れました。もちろん肉料理は連作の、花はフロイトやユングなどの暗喩です。
笠木 いままでよりもざっくりとした手つきで言葉をもってきてる感じがしましたね、〈われらの神が違うかなしさ〉とか。この連作わりと読みやすかったし好きだったけど。
藪内 それの反面の話だと思いますが、ちょっと卑俗な批評語で言うと分かりやす過ぎる、理が付きすぎてるって歌が多かったです。〈てのひらでとけてゆく雪をまぼろしのようだといえばきみはうなずく〉とかもですね、「まぼろしのようだ」っていう安易すれすれの直喩に「きみはうなずく」っていう結句をくっつけてくる。下句のところでぽんと投げ出してくるような歌が多いなあ。他には〈おもうことすべてきみに繋がる〉〈死ぬときはだれでもひとりなのだと若き神父はしずかにいえり〉とか、J-POP的なものもある。〈なぜかおもった〉の「なぜか」って表現がすごく甘いとか。
笠木 まあ〈死ぬときは…〉とかはそうだけど……でもそれ自体が悪いということではなくて、ただ安易に陥ってるのはそれはだめなんだけど、するっと言いつつ他のところではちゃんと気を配って抑えてる感じがする。例えば〈てのひらで…〉の歌だったら「とけてゆく」の〈ゆく〉とかがよくて、まあてのひらの上の雪はすぐとけるんだけどそこにちゃんと時間経過はあって、そこをちゃんと見ているという気がする。この〈ゆく〉が入っていることで歌が〈慣用〉を抜け出し、「きみもうなずく」にしても説得力が生まれているんじゃないかな。そんなに俗っぽいとは思わなかったけどなー。普段の生活を生きていくなかで心が動くときって、何かきっかけ・予兆みたいなのがあって心が動くときばかりではなく、さらっとよくわかんない流れで心がどうしようもなく動いてしまうってことはあって、そこらへんを掬い取ってきている感じがすると思うんだけど。ぎりぎりのほそいところで「なぜか」としか言えない〈なぜか〉っていうものがあって。
藪内 うーん、まあこの頃は〈大きな文脈〉がない人っていうのが結構出てて、そういう生活の心情の微細な所から詩を汲み取ってくるようなタイプでしょうけどねえ。
笠木 そういう汲み取り方は、それはそれでとても禁欲的で魅力のあるかけがえのないものだとおもうんだけど。
藪内 言葉のひとつひとつに負荷がかかってないですよね。いままでの例えば穂村さんとかみたいに言葉に強い負荷をかけることによってポエジーを産み出してゆくのではなく、逆にあえてかけないということによってポエジーを香らせてゆくっていうやり方なんでしょう。
 そういえば文語が、この頃の口語使いの若手のひとたちに混ざってきているじゃないですか、そういうのは…どうですか?
笠木 川島さんのはそういう傾向とはまた別だと思うんだけど。
藪内 そうですか?
笠木 だから藪内くんはこういうのとか嫌なんでしょ?〈冬の野に降りしきる雨 この国に核の傘という言葉ありたり〉の「ありたり」みたいな。
藪内 なんか違和感があるなあ…。
笠木 僕らの年代だとさあ、国語の教科書とかに俵万智とかが載っててさあ、どちらかというと口語が先にベースとしてあって、文語を使うってのが逆に作為というか策略になってるよね。たぶん若い人で文語を使っている人はそういうひとが多いと思う。でも川島さんの文語はより内省に近いような、自分の心の声に近い形にしていく結果でこういう文語になるんじゃないかなという気がする。僕らは考えるときにもつねに口語でやっているわけではなくて、その言語が文語であるってときもあって、それをそのまま持ってきてるって気がする。だから川島さんの文語は敬虔さの表れみたいな感じがするんだけど。
藪内 うーんでもやっぱり変な感じがするなあ。〈光りつつあり〉とか…。
笠木 でもさ、川島さんの作風だとすっきりとした文語は合わないわけじゃん。使いこなせてる文語だと合わないと思わない?
藪内 使いこなせてないのがいいんですか?よっぽど上手くやらないと口語のなかにガチ文語が混ざってるっていうのは…。
笠木 でも上手くやったらただの上手い文語の歌になっちゃうし。〈テーブルに置かれた鍵がまよなか答えのように光りつつあり〉これもそのまま書いてあって内容としてはよくあるものなんだけど、事象とか現象とかそのものがありふれていても私にとって些細だけど特別なんだ、っていう凸凹感、それを出すための文語なんじゃないかな。たとえば川島さんの歌は字余り字足らずとか定型にあふれていくような歌が多いけど、それと同じレベルのものな気がする。
藪内 どうでもいいですが結句ばっかりですね、文語。最初口語だと思わせておいてなめらかに進んで結句で裏切る、みたいな構造なのかな。
笠木 致命的じゃないんだけど、ささやかに裏切られるっていうのがミソなんじゃないの?川島さんの作風として。別にブイヨンの脂がスープに浮いてたり、旦那の語源がダーナ(布施)だったりしても、わたしの生活とか人生に直接被害とか影響があったりするわけではないんだけど、それが〈私〉の感受性にとってささやかなささくれであったりする。そこを拾ってきているわけで、それが破調であったり、この文語であったりする。
藪内 成程。
笠木 だから「文語を使うぞ」と思ってつかっているわけじゃないと思う。
藪内 そうかなあ。逆だと思いました。〈隣り合う少女と淡く触れていて京王線にゆられるわれは〉すごい良い歌なんですけど、まあ「淡く」がいいのかな。
笠木 少女と、の「と」がすごくいい。
藪内 ああ、少女「に」じゃないんですね、少女「と」繋がっている的な、双方向の関係性みたいなものまで醸し出している助詞ですよね。でも「ゆられるわれは」がねえ…。
笠木 ああその文語を使おうと思って使ってないっていうのは、私は文語というものを使いたいんだ、というのじゃなくて、文語は手段でしかないので、っていうスタンスというか。
藪内 ああ、なるほど。自分はこれでいくんだ、っていう一貫した主義みたいなものではなくて、ここではこの言葉がぴったりくるからってことか。
笠木 いま私が選びうる最善の手段としてこれをつかっています、という感じであって、文語そのものへの嗜好があるわけではないよね。で、藪内くんからすると、そこが気に入らないのかな。
藪内 だから、借り物の表現な感じがするっていうことで。「隣り合う少女と淡く触れている」っていうモチーフは川島さんワールドなかんじで、女性的なわかもの感にとても惹かれるのですが、そこで急に「ゆられるわれは」っていうある意味マッチョというか、そういうものが出てくる。そういう借り物文語的ノイズが各所にみられるのですが、それはあんまり成功していないと思う。もっと一貫して女性的な雰囲気のまま最後まで流すべきだった。
笠木 でもそれだとやっぱり脆弱すぎるんじゃない?通り過ぎちゃうというか。「淡く触れていて」の感じのまま終わってしまうと、そのことを肯定するだけで終わっちゃう感じがするじゃない?淡く触れているんだけど、そこにべつに救いがあったりするわけではないよという感じがするかな、「ゆられるわれは」とか書かれると。
藪内 それを口語で言ったらいいのにと思うんですけど。文語で書かれるとやっぱりそれ以外のニュアンスが含まれちゃうわけで、文語はいろいろなものを過去から引っ張ってくるので。その過去から引っ張ってくるものが、川島さんの作風ではかなりノイズになっちゃうんですよ。ピュアなところに雑念、ケガレみたいなものが混ざる感じがして。
笠木 フロイトとかユングからは連れて来ないの?
藪内 この「フロイト」「ユング」とかはある意味で別の人にも替えられるじゃないですか、それは「引っ張って来てない」ということの表れで、なんというか華麗な名詞を散らしてるっていう意味でしかない。かなり強引に言うと。この「フロイト」とかが本来持つ意味でポエジーを立ち上げてるわけじゃないですよね。このフロイトとユングは一首にスパイスをかけてるってイメージでいいんじゃないでしょうか。
笠木 歌の中で、すごく凝縮された〈今ここ〉を出すことによって一首を完結させるっていうやり方もあると思うんだけど、川島さんの場合は〈今ここ〉だけで終わりたくない人だと思うんだよね。〈わたしたちスタンダールを読みあったりしながら惹かれあったりもしたね〉っていうのも、「惹かれあったりもしたね」とだけ言うとそれは全然無力で、それが分かっているからスタンダールを読みあった、っていうことが〈今ここ〉じゃないところに手掛かりというか裏付けみたいなものを求めてるような感じがして。
藪内 今、今、のパラパラ漫画じゃなくて、過去とか未来をみていくっていう…。
笠木 そうそう。
藪内 それと関係ないかもしれませんが、同号、吉田竜宇さんの〈海冷えてストップウォッチで10.00秒を測るあそびをまた続きから〉、このあそびには永遠を感じるじゃないですか、いつまでもやっている感じがする。その永遠に続くことをポエジー化していくっていう若手の趨勢、大森静佳さんの評論を引用すれば「一瞬を信じないということ」のひとつなのかなあとも思いました。
笠木 そう、大森さんの時間観とも感覚的には似ていて、自分とか恋人の死語のことを詠うとか、自分の生まれる前の恋人と光を詠うとかね。〈今ここ〉だけを詠うことの限界みたいなものはあるんじゃないかな。
藪内 まあそういう一瞬を切り取っているわけではない歌ってのは過去にもあったんでしょうけどね。たとえば塚本邦雄の〈革命、それも遅し畳をかきむしりみどり児があやつれる歩行器〉とかみても、一瞬って歌ではない。――はい、まあ僕の意見はだいたい出た感じで、基本的には良い連作だったんですけど、おりおりに出てくる言葉を手ばなしている感じと、文語の混ぜ方に違和感があったということです。〈とつぜんの雨にからだは濡れながらおもうことすべてきみに繋がる〉、「ながら」っていうアララギ的な上手い繋げ方とかが確かにあるんですが、「おもうことすべてきみに繋がる」っていうのが、何か適当に投げたような感触を受ける。やっぱり歌人としての自分から読者の方に言葉を投げ捨てるっていうのはあんまり良くなくて、投げすぎず自分に引き寄せすぎずっていう緊迫感のあるところで言葉を選んでいくっていうのがとても大切だと思うんです。
笠木 例えばその歌だったら「おもうことすべて」のところを別の具体的なものにすることも出来るんだけど、その方がより短歌的なまとまりはよいのだけれど、でもそうすることでそがれてしまう何かを捨てたくないんだよね。

天満橋、会議
暇がどうしてもとれず更新が止まっておりました…。。

月曜日のゼミの予習(殆どしていない)に追われるはげしい状況の中、朝からふたり連作批評会。
まあ全体的に淡いんじゃねみたいななんかそんな感じの評をうける。
いつも連作が「上手いけど○○」としか評されないといふのはさすがによくないよな…。

三時前には切り上げて返す刀(?)で大阪天満橋へ。塔の全国大会の会議。
いつ言っても天満橋駅沿いの川がうつくしい。
会議のあいまに梶原さんと一年ぶりに話せたりしてたのしかった。
東北歌会にも一度行きたいんだけどあまりにもとおいから…。

懇親会では黒住さんが興味深そうな話をなさっていたが耳が悪く断片しか聞き取れなかったので、
黒住さん・山下さんにもらった鰻とご飯を茂吉の気持ちになって食べていたのであった。
本郷短歌創刊号についての雑感 その2
後半は惹かれた作品を中心に書く。

眼つむらぬうをの眠りに溶けながら鱗は銀の花びらとなる
夕風が窓から窓へ通りゆく淡さにひとひ終へてしまひぬ
花ひらくやうに心は開かねど卓にほつとり照るラ・フランス       安田百合絵

安田の連作の世界にひきこまれた。前半戦ではちょっと空中戦になってしまったな、と反省しながら、しかしその議論からすこし影響されると、〈私〉からわずかに浮いた仮構の〈私〉が強く感じられる歌が多かった。安田の連作は、文語旧仮名の特性をうまくひきだした、やわらかくしかししなやかな文体を基調とするものである。二首目、淡く過ぎてゆく一日への違和感を「夕風が窓から窓へ通りゆく」ことによって表現しているのであるが、「淡さに」の「に」が非常に短歌的なうまい助詞である。淡さにひとひ、という下句のi音のかさなりもどこか哀切であり、完成度が高い。しかし前述の文語旧仮名という名の倫理観、それらしい短歌におさまろうという無意識下での意志が、連作のところどころに頭を擡げているようにもみえる。三首目、とてもいい歌で、とくに「ラ・フランス」(黄緑いろの洋なし)という選択がこの歌の特異性でありクリティカルである。(旧仮名でほつとり、も好き。)「花ひらく」「心は開かねど」というひらがな・漢字表記にも細心の注意がみられ、このような文体のこまかなところへの、だからこそ徹底的であるべき留意が一貫しておこなわれている、そのことが全体としてのつよくやわらかな連作の完成度を支えているのだろう。しかし同時に、「花ひらくやうに心は開かねど」心の花がひらく(ひらかない)、というイメージにはどこか短歌のフォームとしての既視感がそこはかと香る、ような気はしないか。〈ストローを吸ひ尖るくち しみじみとさびしき顔を見てしまひたり〉この「しみじみとさびしき」に“短歌的”があらわれ過ぎてはいないだろうか。―ちょっと意地悪な評になってしまったかもしれないが、そのような短歌〈的〉であることに溺れかけている、溺れていない、というぎりぎりの水際にいるような感覚を、(他の人の連作にも)感じた。例えば〈どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり〉にみられる短歌的切れの地味な拡張(=格調)のような、そういう危うさをもうすこしだけ見てみたい気がするのである。

きんいろでぎんいろのゆめ あなたより機械の声のほうがやさしい     吉田瑞季
雪虫を肩のあたりにつけたまま戻りぬ 見ればゐなくなりたり       近藤健一

本郷短歌における(仮構の)私、とは塚本的でもないし、早稲田短歌的でももちろんない。それは「夢のなかのわたし」的である、と言えばもっともしっくりとくる性質のものである。この誌を読みすすめればすぐ気付くことであるが、ゆめ、という言葉が何度も違う連作から再登場する。上記、安田の一首目も「ゆめ」という言葉自体は出ていないものの、「うを」の「眼つむらぬ眠り」に私、そして読者の視線までもがまきこまれ、溶け込んでゆくような感覚のうちに、「鱗」が「銀の花びら」へと溶解―詩的昇華される。掲歌、吉田作品も「ゆめ」的な感覚のうちに展開しうる歌で、きんいろ(ひらがな!)かつぎんいろであるような〈ゆめ〉的パラダイス感覚、ぼやけた膜のなかにいるような感覚が下句に自然に流入し、「あなた」の声よりも「機械の声のほうがやさしい」という逆転現象にリアリティがうまれることになる。近藤作品もそれと書かれてはいないが、〈ゆめ〉的なコードで読みたくなる一首。「雪虫」を「つけたまま戻」った、この時点ではtextに忠実に従って解釈すれば確かに今の時点で雪虫は肩についている筈、なのに私たち読者は「見ればゐなくな」っている、という作者による裏切り――むろん文学的にプラスの意味で――に遭う。その「付いていたのに、見れば付いていない」世界はきわめて〈ゆめ〉的であり、そこに詩としての魅力がうまれている。私はこの夢を過去に知っている。

覚めぎはに聴いたのは九月の椎の実を踏み帰る足音、たしか       魚村晋太郎

この歌は大辻隆弘『時の基底 短歌時評98-07』の有名な文章「短歌的人格について」に引用されていて、吉川宏志の「てざわりリアリズム」志向と比較して「椎の実」のリアリティが〈夢〉と「たしか」という語によってセロファンが掛けられたようになっていることを指摘されているのであるが、このセロファン=〈ゆめ〉と同じようなものを、本郷短歌の底流に感じるのである。現実に付きすぎず、かといって離れすぎず、きっちりとゆめ的な〈私〉を成立させてゆく、というのが今のところの本郷短歌会の主流、特質なのかと感じた。集団の特質はいつでも望まれるべきものである。ただし、安易に〈短歌的〉のほうへ流れてしまうことへの危険(一般的な話で言えば、それは文語や旧かなを用いている作者などに多い。伝統的に続いている文語旧かなという〈魔〉に、飼い馴らされてしまうのである!)には留意しておいたほうがいいように思う。

網棚に載せれば視界より消える そのままいつかわすれる荷物
やわやわと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい
海底(うなそこ)がどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る        川野芽生

さて、文語・旧仮名を基調とする〈ゆめ〉的な作風とは別に、川野芽生「凌霄花」にも注目した。海沿いをゆくさわやかな感覚の連作、のなかによく見れば陥穽のように青春の絶望がひそんでいる。それはたとえば三首目「海底」にひらく不可解な「扉」によってあらわれているようだ。自分のことながらいささか陳腐ではあるが、海の底→死、そして死んだものが堆積している、みたいな連想をしてしまう。まあここでは「どこか」と言ってわずかにそのニュアンスをぼかしてはいるが、おそらくは「死」が、あかるく開く扉なのではないかと感じる。その「扉のあかるさ」をさらに「船でさえぎ」って「帰る」(ここの表現は上手い!)というのが、青春のアンビバレントな葛藤を表出させながら同時に歌の構造を何度もねじるように複雑なものとしている。
二首目、この世の一切は燃えている、という城戸朱理の詩(『世界―海』)をおもいつつ、まず目につく下句ではなく、上句の「やわやわと」に注目する。この語は甘い、と思う自分も確かにいるのであるが、同時にこの連作の雰囲気―どこかノスタルジックなアンニュイな(あるいはこれも〈ゆめ〉的皮膜のなかにいるのか?)海への逃避行という雰囲気に貢献しているという気もするのである。「海面発火」という造語(助詞が抜けているだけのような気もするが、それでは二流品になってしまうから、造語ととらえたい。三首目の「ひらいてる」も気になるが…)も率直に言っておもしろい。あえて下句はスルーしていたが、「少女は左/目をなくしたい」というどこか早稲田短歌風味かつ自罰的なテクストは、この連作の底にながれる主題―青春の絶望(のふかさ)へとやや直接的にかかわりながら、上句「海面発火」にやわく流れ込みながら、しかし「左目」という特異性が妙に効いている、という意味において存在している。
一首目は完成度の高い秀歌。「視界」から「荷物」、おそらくメタファーとしての意味も引きずりながら「荷物」が消える。網棚に載せることを「視界からの荷物の消滅」とみたてたのが良く、しかも全体の韻律などから、しがらみを諦念により捨てたときのあの爽快感が自然に伝わってくる。「そのままいつかわすれる荷物」もなかなかできない表現だ。「いつかわすれる」というたとえば「記憶」などにかかる場合にはまったくの慣用句となってしまう言い方が、しかしこの場合は「荷物」へと奇妙にかかっており、同時によく分かるのである。
この作者は、文語などの文体から妙味などを抽出するというよりは、認識の鋭さが自罰的な思考とぎりぎりのところできらめく、その危うさが魅力の核になっているような感を受けた。

18号発送作業
昨日は京大短歌18号の発送(の下ごしらえ)をかさぎさんとおこなった。
180冊くらいの冊子に挨拶文を添えて封筒にいれてゆく。
かさぎさんがあて名シールなどをつくってくださり、それも貼る。
のりで封をする。
のりで封をするのがもっとも職人的訓練が必要となるところで(予想に反してむずかしい、うえにこの上なくめんどくさい)、しかし私は途中から奥義をつかみ、きれいに素早く封することができるようになったのであった。

途中からそばにある川の音に添うようにして雨の音がはじまり、
私は気付かなかったがかさぎさんは気付いたようだった。
あて名シールが足りなかったりいろいろあって発送自体は後日、という
ことになった。

来週中には送れるかな。
本郷短歌創刊号についての雑感(脱線気味)その1
strangerは常に dangerと韻を踏む。 ―V.Nabokov

本郷短歌創刊号が届いた。白地のうえにすこし大きめのフォントでヒラギノ文字が載っているだけの、シンプルな装丁。それゆえに、なのか自然にヒラギノへと注意がむかってゆく(ヒラギノ、とはすなわち柊の野のことだ)のであるが、それを振り払い中身を読んでゆく。

私の個人的嗜好にそって、すなわち誌面の後ろから読みすすむ。編集後記には一人一人のコメントが載っており、しかも個人的な文学(短歌)へのおもいが率直に綴られていて好感が持てる。その次の勉強会報告の「参加者からは、文語旧仮名を用いた静謐な作風に称賛が集まった」「…文語を選ぶ理由や作歌姿勢について、参加者と横山さんの間で質疑応答をし、…」のところに微妙にひっかかりながら、次へ。

歌合せ記。(きょうたんでは16号で悪名高きわせたん・きょうたん合同歌合せが収録されているが……。)おもしろいが、もう少し詳細な批評のやりあいも読みたかったなあ、などと無い物ねだりをしてしまう。だいたいの流れはわかるんだけど…。それにやわく繋がるように工藤さんの「夏合宿レポート」を楽しむ。やっぱりこういう書き方をされるとおもしろいですね…。裏話的な感じでもあり。

次は座談会。全体的に焦点がぼんやりしているような感じはしたものの、興味深いところはいくつもあった。
近藤「社会詠って、意見を表明する社会詠と、単純に社会を素材にして何かいい歌を作るっていう二つ作り方があって。意見表明みたいな短歌はどうしてもだめになりがちで、社会から素材を持ってきて、ことさらそこに明確に主張を加えるわけじゃないんだけどという歌には実際にいい歌があると思う。」
に共感しながら、しかしここには微妙に難しい問題がひそんでいるようにも思う。具体的な作品が挙げられている訳ではないのでなんともいいにくいが、前者は「思い入れが強すぎて粗雑な歌になってしまう」ということかな、と邪推した。特に短歌は、思い入れの強さに比例して歌の器としての力が低下する。強い感情表白を歌に入れるときには、それにもまして「無類に冷静な心」が必要とされる。自らの濁流のような感情・主張によって一方的に社会とかかわるのではなく、つりあいのとれた私―社会間のかかわりから、(たとえば化学平衡のイメージで)双方向的な影響がおこなわれるような構造が最も好ましい、そういう意見に私は首肯する。しかしその構造とは紙一重のところに、対象へのあいまいな私(もしくは作者)の立ち位置に対する批判があることも事実だ。私は以前「愛について」(cf:詩客に掲載)という原発についての連作を書いた。これに対する批判を、私の知る限り二人から頂いたのだが、それには次のような言及があった。

大辻 …この「愛について」も力作やけど、結局どっちなん?賛成なん?反対なん?
大森 まあ立ち位置がよくわからないですよね。
大辻 立ち位置がなあ……。岡井隆さんはもう、原発賛成って言ってしまったんだよな。あれはあれで、よく言ったとは思うけどな。
藪内 賛成か反対の二元論なんですかねえ?
 略
大辻 でもね、藪内さんの二元論を排除する、という考え方にはすごく吉川さん的な所があって。吉川さんは「イエスかノーか」っていうのを決めるのがすごく嫌いなの。
 略
大森 本当はイエスかノーかっていうのは自分のなかでは本当は決まっているんだけど、それを短歌にするときにやっぱり葛藤として出さざるを得ない、みたいな。
大辻 うん、そうそう。その「葛藤」で「文学」にする、というか。
(『京大短歌18号』座談会)

「あなた」から(距離の二乗に反比例しているとはいえ)一定量の「愛」を受け取ってしまった「全人類」の一人として、もう一歩踏み込んで「あなた」が存在しているというまさにそのことを承認できるのか、できるとすればそれはいかにして可能になり、できないとすれば「あなた」に対していかに行動するのか、といったことについて語るべきであったように思う。
(『早稲田短歌41号』「「愛について」について」吉田隼人)


(注;私は原発のことを連作中で「あなた」と呼んで相聞をしている。)
この三人が受けたであろうそれぞれの違和感は、しかしおそらくは同根のもの=私があなたをどうするのか、という意志表明がはっきりとなされていないということへの疑問、であると思う。ただし前者は、連作に表明されるべき意見を「イエスかノーか」という単純な二パターンだけに制限した点、そして「イエスかノーか」をはっきりしない=葛藤=吉川宏志の態度、というやや雑な等号を用いた点において後者に劣っているし、現実問題、対象への態度がイエスでありかつノーでもある、という場合が殆どだろう。ともかく意志表明が十分になされていない短歌には、批判の矛先が向くことがあるのだ。しかし注意しておきたいのは、文章はその存在自体が意志表明であるということ、たとえばこの連作を「〈愛〉と〈原発と私の関係〉の類似という発見」という表明だと見做せなくはない、ということである。まあこの場合はその表明がそれほど強度を持たなかったからこそ、〈私〉は〈あなた=原発〉をどうするのか?という点における表明の物足りなさが指摘されたのであろうが、そのような物足りなかった表明の裏には無数の表明があるという構造には留意しておきたい。このことはまたの機会に考えようと思う。

私の個人的なほうへ引き寄せているうちに話がかなりずれてしまった。最初にもちょっとふれたのだが、本郷短歌会には全体的に(全員ではないだろうが)文語・旧かなに対する信頼がみられ、それはときに前のめりなものであり、スリリングだ。まず何度か出てきているのが、文語をつかうことで仮構の〈私〉が本来の私――なんていう胡散臭いものがあるのかわからないが――から少し離れたところに分身として浮き上がってくる、この効果のことである。まあこれは旧かな・文語の利点としてよく言われることだけど。もともと本来の私、なんてものは(あるとしたら、だが)本人以外には「主人公目線の映画」くらいのつまらないものであって、よく言われる言葉を流用すれば「ななめ上からの視点で」語られる仮構の〈私〉がおもしろい。ただ座談会にあるように「私は文語旧かなだから、こういう内容、こういう素材は詠えない」とかいうところまでいくとちょっと行き過ぎなんじゃないか、とも思ってしまう。ここだけでなく、全体的(文語、旧かなのひとの作品もふくむ)に文語とか旧かなとかいう便利な仕分けワードへの意識の過剰を、違和を少し感じるのである。そうではなくて逆、〈私〉という一つの絶対的な短歌的生命がまず存在して、その次に、世間ではこれを文語だというんだ、とか旧かなというんだ、とかいうレッテル貼りがある筈だ。そしてどういう素材が私に詠えるか、詠ってよいかという判断はもっとも初期的な、短歌的生命というレベルで行われるべきだ。その差は微妙に見えるが、しかし創作にとっては重要だ。とくに定型詩の場合、最初から韻律という名の拘束がひとつかかっている分、より一層注意してかたくなな倫理観をとりのぞかなければいけない。無意識なとりきめ、慣習、マジョリティーへの追随をできるだけ意識して自らからとりのぞき、〈自ら〉の最も根源的な場所での倫理だけを守りたい。

次回は具体的に同人作品を見ていきたい。
螺旋と円環、もしくは詩と非詩
現代詩手帖五月号、吉本隆明追悼特集をじりじりと読んでいる。
(ハーツホーンゼミ、飲み会を経た頭を酷使しながら。)
とりあえず座談会を通読してみたが、教養0の私にとっても興味ふかいことがらを、いくつも拾うことができた。

『超「戦争論」』を瀬尾氏が語っている。一般的な〈アジア的→古代的→封建的→近代的〉のような世界の段階的イメージ(一方向的)ではなく、「世界は、時間は循環・重層している」と書かれているのではないか、と。そういえば戦争は六十年周期で繰り返される、みたいな話を聞いた気がする。さらにぼんやりとした連想がいくつか浮かんで来るのだが、たとえばナボコフはものごとの円環性を忌み、それがz方向への深化・すなわち螺旋化することを望んでいた、みたいな文があったな。そういえば昔読んだ秋桜子の入門書に、俳句はそれ自身で円環となる、円が奥義だ(うろおぼえ)みたいなみたいなのがあって爆笑した記憶もある。そのときちょうどジョジョの「回転は無限の力だッ」とかを読んでて、しかも「短歌は二つの感情表白の波とでもいうべきもの――それはほとんどの場合上句・下句に一つずつあるのであるが――を第三句(ではない場合もこの頃は多いが)によって静かに接続され、同時にそれは奇妙にジョイント(接続)部分によってねじられ、さらに上句→下句→上句→…という合わせ鏡的構造によって無限螺旋構造を持つのだ、という論を考えていたのであった。

「詩」と「非詩」の話もおもしろい。まず「存在的な力が個体を通して直接に噴出している部分を、詩的な部分と呼ぶ」「表出がいったん関係の絶対性の場に移され、そこから個をどう規定するか考えていくのが、非詩的な思考である」と解説されていて、よく解るし、吉本が「文学だけでは誤る」と繰り返し述べたことについて「文学がその対極にある非詩的なものを視野に入れていないと、文学として誤る」というのも基本的に納得する。これは原発詠の問題ともぶつかることで、小高さんは原発の本をいっぱい読んでいるらしいが、そういう姿勢のことなのかな。

もっと時間をかけてでも十分に読みこんでゆきたい。
腹痛のベテラン
今日なんとなくわせたん41号を読んでいて、本当にいまさらなんだけど平英之さんの連作で爆笑した。

タイトルが「ボケナスにあたった」、一首目が〈腹痛はらいたのベテランだけど今回はさすがにきついかもしれない〉。「腹痛のベテラン」ってのがよくわかるなあ。かくいう私も腹痛のベテランだったので、昔はあと何分腹が持つか、など完璧に予想できたものだ。基本的に私は、岡井隆風にいえば刺戟性結腸ライツ・コロンという持病?をかかえているので、高校のときは毎朝がそれとの戦いであったのだ。(週に五回くらい遅刻してたけど。)

レトリカルなつっこみをしようと思えば、結句へと文字通りしりすぼみになっていく韻律がこの腹痛のやばさを表わしていてリアルだ、とかいろいろ言えるんだろうけど、言う気無くしちゃった。(いい意味で。)




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