夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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京大短歌歌会(2012.06.28)
昨日はきょうたん歌会。
ルネの古書店でナボコフの『ロシア文学講義』、隆明の『重層的な非決定へ』を手に入れて(しかも後者は500円!!)ほくほくした状態で歌会へ。
歌会は中山さんが司会でパッパッと進んだ。まあドラゴンも来襲で緊張感も適度にあって、いい歌会だったんじゃないかと思います。新人さんも二人来られて、歌もなかなかよかったー。

歌会後は小林くんもいないのでおむらはうすへ。安達くんに「藪内さんは歌評後半の分析整理力“は”すごいですよね」とか言われたりしながらだべって、10時には解散。

その後は流れでドラゴンさんとちょっとだけ二人飲みに行ったが、おもってたより多い冷酒が来てびびった。さっと飲んで11時には終了。
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塔詠草2012.06
散文だけでもあれなので、一応塔に載った詠草を転載します。推敲はしようかな。


秋の椅子が冬の椅子へと変はりゆくやうに愛恋のかはりめにゐき

デジカメの銀のつめたきスイッチを押して遠くの空とあなたを

パーレンに囲ひて書きしいちぎやうを消さむとしつつためらふわれは

家蜘蛛がよぎりてゆきし空間はなにごともなき畳にもどる

こほしきはあなたの小指われよりも冷えてゐたりしあなたのこゆび

幾たびの無残のなかにすきとほるやうな真冬の光がありき

ほの暗き机のうへに出逢ひたる林檎一顆にしたしまんとす
きょうたん歌会12.06.23(+新歓コンパ)
土曜日は京大短歌の新歓コンパ兼歌会。
歌会から土岐さん吉岡さんが来て下さった。なかなかいい感じの歌が揃っていたのもあるが、この頃のきょうたん歌会は批評のやりとりに緊張感があっていい。新人さんたちが本気で批評してくれているのがたぶんうまく働いているのだろう。2・3回生がひとりしか来ていなくて藪内世代との断絶が気にはなるものの、まあ盛況でなにより。

新人さん間の「こんなメンツに交じって連作出すなんておそれ多いですよ」「いや、でもH野さんがいるし…」ってやりとりがツボだった。

終わった後はどこの店に行くのかもわからぬまま四条へ。なんかよくわからない食べ放題の店で9時まで飲み会。アセロラのあと味がウイスキーみたいなよくわからない洋酒を幾つか飲んだ。久しぶりにりゅうさんともじっくり話せたりでとても有意義(?)な一日だった。カラオケでだらだらして始発で帰宅。
京大短歌歌会2012.06.11
そこそこの人数のなか、きょうたん歌会。
この日は出かける前に強烈な吐き気とだるさにおそわれて休もうかとも思ったが、気合いで参加。行くとなんかみたことない新人さんがいるなー(視力0.2)、だれだろあんな坊主あたまなひと居たっけ?と思ってよく見たら斉藤斎藤さんだった。前日の現代歌人集会のパネリストの関係でついでに来て下さったらしい。久しぶりー。

で、それを予感したかのように一首目・二首目に「300円の並」「パチンコ屋」が並んでいてびっくり。最後の歌も吐いてるし。まあ結果的にパチンコは斉藤さんの歌だったのでノーカンかもしれませんが。さらにその横に日本の美、みたいな自然詠が並んでいたりしてなかなかいいかんじの歌稿だった。

ひさびさにルネで食事したあと、「H野はゆるさん」を合言葉に解散。
私は胃の調子が安定して悪く、ふらふらしながら電車で帰宅した。

さつきまであんなに吐いてゐたんだがすねの高さにあぢさゐの花   藪内 亮輔
挽歌について
『最後の親鸞』はちょっとお休みして、『言葉という思想』(吉本隆明)を読んでいる。
これは帯に「若い読者に贈る入門書」と書かれてある通り、かなり読みやすい本になっている。

「生きること」と「死ぬこと」という章に立ち止まる。ふつうわたしたちは、まず生があって病になり、死に到る、と順序関係に落とし込んで「死」と「生」の問題を考えてしまいがちだが、フーコーによるとそうではないということらしい。つまり「死」があることで「生」や「病」が分析できるようになる、死を頂点、生きることを底辺とした三角形として死はつねに生を照らし出している。極言してしまえば「死」とは「生」の意味を分析するためにわたしたちが生み出した道具なのだ、ということが書かれている。

とすると、おそらくは「死」を詠うのはほとんどナンセンスということになる。そうでなくて、挽歌、死の歌というのは、「死に近き」生、しかしそれはぎりぎりをかすめて「死」とは違うような生そのものを詠うものなのだ、という考え方に到達する。

死の歌(挽歌を含む)を一度解析してみたくて、最近は『葦舟』『蟬声』を読んでいる。しかしそれは「死」の歌、というよりはどうしようもなくぎりぎりの生の歌なのだということが分かる。「死」は「死」によって語ってはならない。「死」は「生」の水際によってのみ語られるべきものである。
短歌は直立一行詩……か?

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座談会――短歌同人誌「率」創刊号をよむ――③

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