夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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田村元『北二十二条西七丁目』についての私見
第一歌集。背表紙をひざにのせて読んでいたら、タイトルの銀のきらきらがズボンについてしまった。だからというわけではないが、どこかきらきらした、あざやかな歌に惹かれた。

をみなより先につぶれて春の星付(つ)けつぱなしのまま眠りたり
ひとしきり普通列車は立ち止まる桜咲く駅にドアを開いて


一首目は把握のうまさもあるが、「春の」が地味に効いているようにおもう。(俳句の季語的に効いているような感じ。)二首目は「ひとしきり」「普通列車」に重複感があるが、いい歌。

しかしこの歌集を通底するものは、わりあいサバサバとした、生活感である。職業詠も多く、アイテムとしては電車、昼食、酒、ラーメンなどが多出する。(とくに飲食物が多い。)それはいいのだが、この歌集の問題点はおそらく二つある。一つは、描写されている生活がテンプレート的である(ありすぎる)ことだ。

目覚ましを三回止めた頃いつも「行ってきまーす」といふ声が上がる
二十代過ぎてしまへり「取りあへずビール」ばかりを頼み続けて
人生は意外と長いもんだねの「ね」が焼酎に濡れてしまつて


一首目は普通の家族とその朝が描かれているが、目覚ましの三回目を止めるときに「行ってきまーす」が聞こえる、というするどい発見にリアルな共感と私事的な特殊性がすれ違うのが、詩としての力を保たせている。ただ、二首目のようなテンプレの発想がぱっと出てしまうあたりにこの歌集の苦しさ(私が感じる苦しさだが)があり、「人生は意外と長い」という語が酒に濡れるという世俗的発想も正直つらい。(ね、が濡れるというのはわりといいのだが…。)

もう一つは、生活をアララギ的に歌で描写するときのシンプルな写実手法が、いささか一首の〈解説〉の方向へと流れ、また、一首をシンプル過ぎるものにしてしまっているということだ。

鈴虫の声がしてくる換気扇キッチンで物を書くときいつも
封筒に書類を詰めてかなしみを詰めないやうに封をなしたり


一首目は上の句の「鈴虫」と「換気扇」に固有性がありとてもいいのだが、「キッチン」で「物を書く」というありがちでやや過剰な状景説明、「いつも」による駄目押しが歌を弱くしている。二首目も下の句が説明的で、この歌で「かなしみ」とストレートに表現してしまうのも安易だとおもう。細かいことを言うと私はこういうさらっと流すような(とくに結句での)「たり」は嫌いだ。文体の力、文体のねじれから生まれるべき情感が、戦略的でもないままに捨てられているように感じるからだ。数文字を適当に扱うということは、短歌を適当に扱うということだと思う。この歌集には〈不用意な数文字の言葉〉、「いつも」とか「ある○○」などが多い気がする。

ともかく、発想(素材)と文体、その両方がシンプルな方向に(やや不用意に)流れてしまっているところに、私の違和感は集中した。私はどうも、よりシンプルでより一般的な表現、というものを信用できないという体質らしい。しかしここまで来て、私にとっての本当の違和の核は、先程パーレンで括ってひかえめに表現した「不用意に」であるという結論が見え隠れして来た。シンプルな立ち姿であるということの背後に、其処に到るまでの葛藤と信念がみえてこないような表現は、私にとって信用できない、甘い作品でしか無い。

私怨(?)をだんだんと拗らせてしまって、無駄に攻撃的な評にかたむいて来てしまった。これは私の罪である。私がこの歌集で良いと思った歌は、(シンプルなものではなく、)次のようなものである。どれも復唱したくなるほどの謎を持っている歌たちだ。

投げられし書類拾はんと屈むときある油絵のひとつが浮かぶ
酒飲めばわれと世界に接線が引かるるやうなやすらぎにあり
足下のアスファルトから春は来てわれはねばねば駅へと歩む
蠟燭の灯が少しだけ濡れてゐて闇夜の奥に神棚が ない
ポケットに枯野を折りたたんでゆくやさしいはずの人に逢ふため


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塔7月号についての断想
また一週間以上更新をサボってしまった。それは来週水曜のゼミ発表の予習、そして同日締め切りの某誌に載せる評論の影響が大きい。評論は題材すら決まっていないし、予習もまだぜんぜん進んでいない。

**

塔7月号が届いた。新連載の「私の十首選」が当初思っていたよりも(失礼!)おもしろい。それは、すぐ隣に付されている150字程度の感想から、執筆者の生な声がきこえてくるからだ。

主任とは名ばかりしている仕事とはお茶くみ、印刷、トイレの掃除  龍田裕子
寒中は心も冷えてささくれし言葉吐くなりふたり籠れば  坂下幸子

実は、龍田さんと坂下さんの隠れファンで、女性として男性に対して歌を通してはっきりと主張されていて心地よい。二人の歌を通して私は妻の気持ちを理解する。(山本憲二郎)

わざわざ女性の歌を経由して妻の気もちを理解する、というのがとてもおもしろい。女性の気もちを察するのが超苦手な私としては、うっかり真似をしたくなる。

そういえば、清水良郎さんの歌が複数人に選ばれている。彼は非常に言葉の組み立てが上手い方で、(たしか広告のプロの方だったと思う。)その歌には意味の破綻が異様に少ない。すっと分かって、でもなにかおもしろい。

雪だるまのあたまのうへにかぶせたるカップ汁粉のスチロールの椀
飲み残しの茶碗の底の真ん中にあつまつてゐる焙じ茶の殻      清水良郎


(注:十首選の歌ではない。)現実のなかの発見が執拗に詠われるのだが、それが自分の感情や抒情に反照してゆかないのが非常に奇妙であり、また、いつか見たことのない魅力へと繋がるんじゃないか、という気配を感じる。この方はここからどのような方向に向かうのであろうか。ちなみに、去年の塔新人賞のせいで私は彼に変なライバル意識を持っている。

**

選歌欄評の執筆者が一新している。小林真代さんの文章がすきだ。

視界狭く駅のホームに立っているいちだんと寒さ極まる朝に  春澄ちえ
朝の通勤時間帯で混み合う駅のホーム。知らない人とぎゅうぎゅうだし、(多分)眠いし、寒いし、体も心もいつもよりぎゅうと縮んでいるのを、「視界狭く」とクールに言ったのがいい。

アラビアに雪降らぬゆえただ一語thaljと呼ばれる雪も氷も  千種創一
アラビアに雪は降らないんだよと言われているのに、どうしてもちょっと想像して、私はアラビアに雪を降らせてしまう。それでやっぱりアラビアには雪は降らないなと思う。なんだか、そんなことをしてしまうのだな。不思議なのだな、アラビアには降らない雪も、アラビアのことばも、短歌も。


きわめて率直に、自らの感覚と会話をしているようにみえて、そこに強い真摯さを感じる。かしこそうに批評しよう、などとはおそらく思っていない。こういう、自分と本当に対話できている文章と出逢うと純粋に感動するし、自分も書きたいと思ってしまう。

**

編集後記に吉川さんが『資本論』を読んでいる、と書いていて、私も資本論ぐらいは読んでおかないとな、と思ったのであった。そして永田さんは安定の自分褒めを展開している。


きょうたん歌会12.07.04
午後7時くらいから歌会。9名くらい。
あまりぎすぎすすることなく安全に過ぎた歌会でした。
Aわのくんの司会もいいかんじ。
私の歌は壊れかけのRadioみたいな歌で、一句目から感傷しすぎといわれましたよ。

いま、「今日なにかあったかなー」と悩みながら気付いたんですけど、私は日記が苦手みたいです。いや、短歌日記みたいな短い散文なら書けるんだけど、なんかあったことをいくつも思い出すのがつらいので…。

本に逃げますが、きょうは髙柳克弘『未踏』をちらちら読んでました。句集の批評なんてとても言えませんが、なんか名歌のオンパレードみたいな感じですね……。ときに私が歌でかんがえていたアイデアが、まったくに洗練された作品として並んでいて、京阪特急のなかでひとり悔しがってました。たとえば〈わたしよりも鳥のほうがよくしゃべる〉的な構想が、〈鳥語より人語まづしき小春かな〉とか、〈鳥は春のつぶてだ〉ってのが〈冬青空翼もつものみなつぶて〉であったり。でも彼の(俳句の?)、するどい発見に自然の圧倒的な厚みをもって抒情を代入する、その手法自体はとても私になじみのあるもので、短歌でもよくありますよね。
栗木さんと〈愚直〉について
 全くもっていまさらなのであるが、角川「短歌」2012年1月号の「新春放談」栗木京子のある発言に強い疑問を感じている。「京大短歌18号」の鼎談にもすこしだけ議題に挙がったのであるが、その発言のクリティカルをぬきだすと次の一節になると思う。

小池(昌代) ……シンプルなことばで、もっと心にグサっと入ってくるような、そういうことばの刺さり方を私は目指したいと。それが震災後、いよいよはっきりしてきました。そうすると、今までの現代詩からはどんどん離れていきます。
栗木 それはありますね。私も震災のことを詠むのにあまり比喩は使いたくない。もう愚直に、「なんで栗木さんはこんな歌になっちゃったの」と思われても、何か呼びかけたい。
小池 わかります。もっと愚直に、ぶざまな詩を書きたいんです、震災後は。……


 この、繰り返しつかわれる「愚直」という語から、熱の入った二人の応答から私が受け取るわずかな違和感は、どこから来るのだろう。
すべての鋭い創作は、根源的な〈自身〉からこそ生まれる、そういう思想をまず私は認めたい。しかし創作における〈根源的自身〉へのあくなき追及が、技術否定のほうへとわずかに方向をそらしてゆくのを、私は見逃さない。技術否定をひとは何故選ぶか。それは倫理によってである。技術というものを華美な服装、もしくは外界への硬い鎧とみなすような素朴な思考法が、そのひとにとっての技術という概念をしずかに倫理にふれさせる。
この〈倫理〉はしかし、根源的な自分自身がそれ自体で決定した倫理ではありえない。それは大衆によって慣用句的なかたちで出現する、常識という呼び名の倫理である。詩歌をつくるに際して、常識は常に唾棄されるべきものである。震災をくぐったことによりわきおこる感情の熱は理解できる。しかしその熱は作品にむけて発されるべきものであって、常識にふかいところで従ってしまっている自分をごまかすために使うものであってはならない。「愚直」という自虐・謙遜的表現によって、その微妙なレベルでの差異を塗りつぶしてはならない。
私たちは震災を詠うとき、否技術ではなく、要技術でもなく、そういう不毛な二元論のもっと手前のところで〈根源的自身〉につよく問いかけ、その姿を追求すべきなのではないか。震災によって大小に影響をうける〈根源的自身〉をちゃんと見つめて、もしもかれが野な言葉、すなわち技術を使わないということを要求すればそうすればいいし、暗喩などの技術を欲するのならばそうすればいい。自らの根源的な倫理を全体的な常識から徹底的に守り抜くということが大事なのである。
だから私は、不謹慎だと非難されたとしても、暗喩を、比喩を、むろん非‐技術という方法もふくめて、差別することなく使っていきたいと思う。

***

という文章を1箇月前に書いた。今みるとこの隆明かぶれの文章には抽象論的なきらいがあるので少し実地に書きくわえてみたい。

たぶん栗木さんたちがおっしゃっていたことには、二つの志向が混ざりあっている。一つは内田樹の言葉を借りると「肉体的・身体的な」歌を、抒情を取り戻したい、という意志である。すこし内田の話に沿いながら書くと、わたしたちはそもそも身体的な欲望にとらわれていたのが自然である。「今日は○○が食べたいから食べる」「いい女を抱く」のように身体に直接アクセスした欲望があったし、金はメシを食うためにあった。それがだんだんバブルの頃になると抽象的な、記号的な方向へと欲望は変化していった。金は債権、高給の社員などになり、自分の身体が欲する食物は有名店、三ツ星レストランになっていった。
この抽象化・記号化現象が歌壇でも起こっているのかどうかはわからないが、ともかくそこへの反省・脱却としての身体性への志向があったのではないか。地震・原発による強い生命的不安は、みずからの身体性への視線を恢復させるのに十分な力を持っている。

もう一つが、前述の倫理感である。現代の若手には、前衛・ニューウェーブ時代からの揺りかえしとして、修辞のわざとらしさを嫌うナチュラル志向が流行っているが、この発言にはそれに近い構造が隠されている。修辞がみえない、自然であることと、修辞の力がないということは当然ながら違うのだが、そこを曖昧にしたまま過ぎるひとが意外に多い。端的に言えば、私が栗木さんの発言に感じた違和感は「あまり比喩をつかいたくない」という発言に尽きるのかもしれない。修辞を遣ったからといって身体性が喪われるわけでもないし、遣わなかったら身体的になるかというと、ただのつまらない通俗的類歌になるだけである。

カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりわが部屋に火と水のあること
                           栗木京子 「短歌」2011.06

栗木さんの震災詠には、「なんでこんな愚直な~」というよりは、むしろ安定した技術と理知的な視点からの鮮やかな切り抜き方が魅力の核としてはたらいているようにみえる。この歌にもやや類型的な文体処理である「つつ思ひをり」と、「カップ麺の蓋」を「押さへ」るというリアルさの急所をとらえた非常に上手い表現があって、そのシャープさによって、「被災地に火と水がないことを遠く想う主体」がするどく立ちあがってくるのである。

浮かるるな自粛をせよと世は言へどパンダ観てるる勇気もあらむ      同

こちらは抜群に好きな歌だが、世に追随しない批評精神と視点のシャープさがひとつの力を持っている。しかしそれに加えて、勇気を与えてくれる対象が「パンダ」というのがやはり感動的なのだろう。これがもっと力のある感動ものの映画とか、そういうものでは台無しであって、ちょっとおかしみとかなしみのあるパンダだからいい。

横幅ある立派なかたちと福島県を地図に見てをりニュース終はるまで     同

 しかし所々に、大衆倫理的な方向――すなわち〈愚直〉ということなのだろうが、そちらの方へ寄っていってしまっているような歌がみられる。「立派なかたち」という賛辞は間違いなく愚直であって、なにも考えない三流歌人ならば必ずこのような表現をきれいに避けて歌を作る。しかしこの歌においての「立派なかたち」は、その典拠ともいうべき表現が文中にみられないため、どこか押しつけがましいという印象を抱いてしまい、私はどうしようもなく嫌な感じをこの歌に受け取ってしまった。これが倫理という負の一面である。おそらく、この時点ではまだ栗木さんは理知という自身の特色と、愚直さを融合せしめるには到っていない。

 彼女全体として愚直にかたむいていくというのはおそらく難しく、今の作風的強みと愚直さを融合させてゆくというのが、もっとも自然なこれからの行く道であるように私は思う。
 栗木さんはその鋭い理知を、どうやって身体性に溶け込ませてゆくのだろうか。それは私にはわからないが、わからないゆえに今後の栗木さんの作品を――むろん嫌らしい大衆倫理の押し付けは勘弁であるが――楽しみに読んでいきたいと思う。





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