夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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雑感 塔全国大会
こんにちは。近頃は雷雨がおおいですね。
私は雷雨がかなり好きなのですが、その反面やっぱり怖いですね。
というか家のそばに落ちてずっとネットが止まっていました。
テレビも壊れてしまって、まあ私は静かなのが好きなのでいいのですが…。


塔の全国大会がありました。
塔短歌会賞のかっこいい盾をいただいたり、受賞スピーチが塔の歴史に残りそうなくらいにぐだぐだだったり、資料300部コピーのために深夜の大阪を彷徨したり、(BL?)同人誌っぽいものをコピーしている女子たちの横でそれをコピーしたり、せっかくの帝国ホテルなのに徹夜で暗いロビーで作歌してたり。まあわりと私自体はかっこうわるい感じでした。それにしても三次会が2時までに終わるとは。学生短歌会の合宿では朝までコースとかだったので、それに比べるとちょっと早かったな…という感じもしますね。受賞スピーチは要約すると、技術や知っていうものはある種の固形化だとおもうけど、そっちじゃない方へいきたい、っていう意思表明をしました。それは技術・知を捨て去るってことじゃなくてその反対、より技術・知を活かすってことです。非ー技術、とかってかっこつけて言ってもいいのかな?


今回はアンドロイド劇場「さようならver.2」がとてもよかったです。半分くらい寝てたのであれですが、動きが殆ど無いということが、逆に本当の“動き”というものを表現し得るのだなあ、と。そのへんに俳句とか短歌との接線が引けるような感じがしますね。よく言われる、俳句や短歌は文字数が少ないから小説とか詩に負けるんだ、っていう素朴な考えはやっぱりそのへんに陥穽がある。人間の意識はつねに相対的なものを指向しており、全体を意識してそれに応じてズームイン・ズームアウトをするっていうところがどうしてもあるので、文字数の少なさってのは伸び縮みするんですよね。


大会が終わった後は大阪にむかおうとして間違って大阪城公園前に行ってしまい、ご飯食べながら窓から大阪城公園に降る小雨をみてました。こういう現実の偶然性を愛する心っていうのが、まさに私性の神秘的な力を生み出すのだろうなあと思いながら、実は短歌のひとのよくいう「私性」ってワードがいまだによく分かっていません。私性って、語義的には私小説とかとおなじ私、自分主観の現実ってことなんだろうけど、短歌のなかの作中主体は作者とイコールとして読みましょうという約束のことなのか、まさに「私」が現実として作歌した(している)という事実のことなのか。そこにはたぶん二つのメリットがあって、前者にはキャラクター性、つまり読者がテキストに〈私〉っていう主人公、背景を代入しながら読むことが出来るということ。これは、(さっき批判したばっかりであれなのですが、)やっぱり文字数が少ない短歌としてはだいじなふくらみのひとつなんですね。後者には穂村さんとかがよく言っている偶然の力、リアルという名の偶然が人間の想像力を破っていくというメリットがそれぞれあるんだけれど、そこのところが混濁されたままに使われているような感じがするんですよね。岡井さんの有名な、私性とは背後にただひとりの顔が見えるということです、的な一節は前者なのかなあ。ともかくそういうものたちを総合的に、っていう曖昧な言葉で処理したものが私性という概念なのでしょう。ややこしいなあ。

 大阪城公園にふる雨しづか実は間違へて此処にゐるんだが


(注記 最後の「岡井さんのただひとりの顔…は前者なのかなあ」というところの「前者」とはキャラクター性のこと(メリットの前者)を指していたつもりでした。いま見返すと作中主体=作者ってところにかかっちゃってますね、すみません…。)

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『もしニーチェが短歌を詠んだら』(中島裕介)と箴言
 本書は音楽的アフォリズム集である。格言集というものはいつも人気があるもので、2chのスレでも「私の人生を変えた名言」的なスレッドをよくみる。〈転んだ人を笑ってはいけない、彼は前に進もうとしたのだ〉とか、〈ギャンブルは、絶対使っちゃいけない金に手を付けてからが本当の勝負〉、〈壊れかけのアーチには重しを載せろ〉とか、確かにおもしろいし、役に立ちそうな感覚がある。ごちゃごちゃとややこしいことが書かれていないから、サプリメント的に摂取できるし、応用も利くような感じがする。だから人気が出る。
 twitterの有名人botも同じようなもので、原文の枝葉末節の部分を枝払いして〈批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!〉とだけ書いてあるのがおもしろい。それはもちろん語弊を生むことがあるし、不誠実でもあるが、逆に語弊と不誠実がおもしろみを生むということもある。いや、むしろ、抜粋された文章の語弊、不誠実がゆたかな森を生むことを信じ恐れないものだけに短詩型に手をつける資格があるのだ。
 受験参考書に「古文単語を語呂合わせで憶える!」というものがあったが、確かに音楽性は暗唱性を生み出す。ニーチェの哲学がどれほど深く難しいものなのかは浅学ゆえ知らないのだが、その核を抜き出し、短歌という一つのリズムにのせることで、ある種のおもしろさと心地よさがうまれていることは事実だ。日本語による翻訳は幾らでもあるが、本書は私の知っているなかでも珍しい短歌による翻訳書である。そのアイデアは非常におもしろく、有用である。

 残念なお知らせをまず致します「いつも世界は不公平です」
 苦悩して苦痛に耐えていれるほど君の心が健康なのだ
 一日の三分の二を自らのために持てない者が奴隷だ


 中島はニーチェ哲学の核心をできるだけそのままに、シンプルにリズムへとのせようとしているようだ。彼の視線は叙情詩としての短歌へは驚くほどストイックに向けられていないが、その姿勢は枡野浩一のかんたん短歌と同じものである。定型韻律を外れることによって〈私〉の感情を表白するのではなく、韻律に逆らわぬようしずかに寄り添うことによってリズムのなかに意味を溶かし込ませる。五七五七七という定型は、ただ純粋にリズムを与えるということのみによって働き、有機的な効果を与えるということをしない。まるで新聞の見出しのようだ。〈翻訳者=私〉を消滅させることによって、ニーチェから読者へと〈翻訳者=私〉を経由させないまま箴言が届く。
 すると本書のやり方においては、破調は悪である。ざっと眺めたところでは口語短歌の技術力不足とみられる破調・字余りが多々みられたが、それは単純な失敗、妥協だろう。上記二首目は文法上正しくは〈耐えていられるほど〉であるが、定型遵守による律の力を重視するために省略語を用いざるを得なかった、作者の苦悩が読み取れる。

 職業に没頭できることこそが悩みや憂いの防壁となる
 自らの血でもって書け 他の人の血を理解するのはたやすくはない


しかし果たして、乾燥した文体のなかに〈私〉を消してしまうということはどうなのか。ニーチェの箴言と律だけに焦点を絞ったことが本書を箴言集に仕上げているということは分かる。さらに、文体の装飾をなるたけ外すことによって記憶に残りやすくさせるという効果もあるだろう。しかし厳密な意味の翻訳というものは不可能であり、翻訳とは他者の作品を〈私〉に衝突させたときに生ずる火花のことではないのか。そこに、〈私〉を消してしまった本書の最大の躊躇と弱点が露出するようにおもわれる。
 さて、ここまで来て私は上記二首目に惹かれるものを感じる。〈自らの血でもって書け〉。この箴言自体がニーチェの血をもってして書いている本書全体に適用すべきであるものであり、三句目〈他の人の〉、下句〈理解するのはたやすくはない〉に通底するどろり、とした韻律がまさに「血」に迫力を与えているように感じられるからだ。ここに来て箴言の切れ味は、箴言を超えはじめる。





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