夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



Counter



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「未来」2012年10月号の感想(1)
関西では買うことができなかった結社誌「未来」が、三月書房でも買えるようになったとのことだ。まずはそのことを喜びたい。

**

「時評」で野口あや子さんが本ブログを取り上げてくださっている。最低限の礼節を持たず、而も論点を完全に外しているという点で、私をふかく失望させる文章であり、そのことについてはtwitterで幾つかの意見を書いたのだが、少し感情的に言い過ぎたかもしれない。その点では私も野口さんと同罪であり、申し訳ないと思う。然しながら、この文章が殆ど糧を生まず、語弊ばかりを生む悪文だという事実は変わらない。

然しながら、(この接続語を連発して申し訳ないですが、)この文章の大意には肯うところがある。Twitterで私たち一部の歌人は「仲良く」なっているが、その事によって批評の刃が錆びるということも一つの事実である。私自身は身内、大事な知り合いだから批判しないということは出来ないタイプの人間であると思っていて、(そういう点では寧ろ私は野口さんに近い人種だと思っていたのだが…)たとえばフォローされているにも係わらず、角川の特集や年間回顧座談会に強く違和を唱えたこともあったし、当ブログで塔・而も京理の先輩である栗木京子さんを強く批判したこともあった。ただ、どうしても眼前にいると批判しにくい、というのも分かって、それはたぶん不可避であるのだろう。いま私はtwitterでの歌人同士の話し合いをとてもおもしろく見ているのだが、彼女のおそらく指摘したかったであろう深い陥穽を、折角の機会である、もう一度皆で意識すべきだろうと考えている。



今月号の「未来」は、正直言って凄かった。それは前述の時評から来る「未来」への悪印象を十分払拭するものであった。久しぶりにする散文の更新であるので、少し詳しく各々に立ち寄りながら見ていきたい。これからはまた、ある程度の評論更新を、だいたい週に一度弱くらいのペースで行いたいと思っている。(然し今月などは非常に忙しいので、断言はしかねるのです…。)

***

私は「塔」誌をひらくとき、先ず最後の編集後記を見るのであるが、「未来」においてはその逆、岡井さんの詠草から見始める。私が岡井エピゴーネンである所為かも知れないが、この詠草がとても良いのである。総合誌などに出ている歌よりも寧ろこちらの方が好きだ。

笑つてゐるうちに真顔になつて来たやうな夕雲に向き合はねば、な
向かふからも声はかけにくい間柄芙蓉の花を見るふりなどして
ブレンダーで果実をくだく音のする朝だからこそのあはい憂愁    岡井隆(未来12.10)

どこまでも歌を引用したくなる。この頃の岡井さんの歌は、感情のしずかで繊細な模様を表現しているものだ。一首目の上の句のリアリティ、こういう場面は人間同士話しているとよく発生するものであるが、それが下の句に進むときに夕雲への喩としてあざやかに転換されている。題材をいつの間にか抽象と喩の方向へと持って行く、マジックのようなあざやかさの裏、〈笑つてゐる/うちに〉〈真顔になつて来た/やうな〉〈向き合はねば、な〉と少しずつ何かが零れたような韻律に、おそらくこの歌の秘密がある。三首目は四句目の〈だからこそ〉が奇妙な接続語であり、おもしろい。更にふしぎな語順操作によって、リアルな憂愁の感覚を生み出して来るあたりが、本当に凄い作者だと私に思わせる要因なのである。〈くだく〉〈あはい〉を平仮名にひらいているのは、たぶん朝の憂愁ということと無関係ではないだろう。上の句で果実というアイテム、下の句でa音の頭韻によりあざやかな印象も感じさせる一首である。
彼の歌を批評しようとすると、いつの間にか細部へと細部へと批評の切っ先が向かってしまうのに気付く。細部とはつまり、感情の本質なのだ。細部にこそ、感情の質感が宿るのだと、今ならば思える。感情ばかりを表現する、というのもどうかとは思うが、短歌は特性として、今のところは、感情をあらわすに適した詩型となっているようにみえる。



「未来」誌に実験作が多いことは、率直に言えば尊敬に値することだと思う。そのような作はどうやら加藤治郎選歌欄(ニューアトランティスopera)に多いような気がするが、別の選歌欄の一篇で「未来広場」に推されている渡邉琴永「口語自由律短歌「美意識と写生」」が良かった。

美意識は無形しかしながら光の如くデッサンを進めぬ哲学を用いて
ものすごく欲する頃が在るのは否めない美は驟雨のように訪れしもの―
絶世ということばは悲しい美女は表現体として難し       渡邉琴永(未来12.10)

自由律に近い短歌としては、すぐさまフラワーしげるを思い出すが、彼の短歌にどこか饒舌さが浮き出てくるのに対し、こちらにあるのは冷徹・沈着な哲学性であるように思う。むろんそれは既定の短歌律によってぶれない文体=自由律に因って出て来る性質である。更に文語調もキビキビとして魅力的なのだが、幾つかの歌について発想の底が割れてしまっているのが惜しかった。

実験作といえば、「サムシング」という主語・目的語を喪失させた奇作で角川短歌賞佳作となった平田真紀の歌集が出たということだ。(『愛という教養、サムシング』私家版八〇〇円。)孫引きで一首だけ。こういう奇妙な歌が多くあればいいな、と思う。

ねむれ眠れねむれとうたうくちもとに娘は蛇がいると言いたり  平田真紀『愛という教養、サムシング』



スポンサーサイト




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。