夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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韻律批評について―或る火の歌をめぐって―
火のやうにさびしいひとにさはれずにただそばにゐてあたためられる(本多真弓「未来」12.12)

部屋が寒かったのだ。空を見ても雲がどこまでも続いているだけで、日向ぼっこなんてできそうにない。暖房も今付けることはできるが、直ぐには暖まらない。だから私は焚火をした。冬空の下、明け方に降っていたらしい雨にまだ湿っている枯草と木を集めて、火を付け、ほそぼそと火を繋いだ。そのどもるように燃える火を見ながら、私はこの歌を何度も暗誦していた。いや、それはすこしばかり正確でない。

火のやうにさびしいひとにふれられずただそばにゐてあたためられる

私はこう、暗誦していた。自らの記憶力を恥じるばかりだが、実際にこの三句目のほうがずっと心に沁みたし、その理由も言うことができる、気がした。

しかしそののち、twitterである方に第三句は元の「さはれずに」のほうが良い、と指摘された。彼は鍵アカウントであるのでここにその文章を引用することはできない。そして私はtwitter上の議論は双方が公開状態でないと気持ちが悪いという疾患を持っているので、その場で議論することはできなかった。ただ、彼の意見にはかなり承服しかねる部分があった、ということぐらいは言っても良いだろう。

すこし理屈のほうに寄せて考えるのを許してほしい。前歌(元歌)は二句から結句までそのすべての頭にaの音が表れており、頭韻が韻律を完全に支配するわけでは無いにせよ、短歌という五個の節の集合体においてはある一定のイメージを作り出す。ここをもう少し正確に言おうとすれば、句の後の休符などを解析せねばならないので、今は措く。あ、と発音してみるとわかるが、他の母音よりもわずかばかり高らかな、ポジティブな気配が感じられる。それに反してuは口をあまり開けることなく、口ごもるように発音せねばならない。それはごくごく小さな違いであるが、それゆえに、一首から受けるリアリティを大きく変質させるものである。(リアリティ、とは現実っぽいとかいう意味ではないので悪しからず。しかしここでリアリティ、と言い放つ際の違和感は何なのだろう。)前歌は「a」の感触が各節を通して単調に続くことによって一首のなかの主体の表情がある方向に一定であるのに対して、後歌は三節に「u」と口ごもりながら語り始める「ふれられず」が一瞬だけ主体の表情を曇らせる。うつむかせる。そこではじめて、「ただそばにゐてあたためられる」ことが切実な救いとして立ち上がってくるのだ。a音のもとに、どうしようもなく暖められる主体が浮かび上がってくるのだ。

確かに、「さはれずに」に比べて「ふれられず」はr音が何度も混ざって言いにくいという面はあるだろう。結句の「られる」が比較的言いやすいのに反して「ふれられず」が言いにくいということには、たぶん重複(「れ」を二度発音しなければならない)の問題が関わっているような感触を受けるが、専門知識がないのでいまは深入りしないでおこう。しかし、文章の韻律を論ずるときもっとも重要なのは、韻律が意味に作用するときである。思えば、先の二首において意味内容は殆どかわらないのである。ただ、韻律が違う。ここで大事なのは、aとuという音の違いが、意味世界への変質を齎しているということだ。「ふれられず」が言いにくいという事実は、意味世界への変質としての「u」という事実とは完全に次元を異にする。世にあふれるつまらない韻律批評の殆どは、意味を変質させないレベルでの好悪を語っていることから生じている。韻律の意味への作用を思うとき、一気に構造は多次元化する。(しかし意味というのも胡散臭い言葉である。言葉を使えば使うほど、水に張り付いて剥がれない水面のように「意味」が生じ始める。あるいは、作用するはずの意味を振り切った韻律が、しかし多次元化する、というのが理想なのだろうとは思うのであるが…。ここで私の思考は袋小路に入る。)

(補記)「に」の脚韻も、読み上げるときのイメージを単調にさせる。韻律批評でもっとも低劣なものとは、ここが頭韻だからリズミカルに読みやすい、などという一見正しそうに見えて根拠が無く、雑で一元的な見方であると、自戒もこめて最後に付しておきたい。

*この歌を含む月詠「HHG」はとても優れた一連です。以下のHPで参照できます。http://hibikino.cocolog-nifty.com/


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短歌日記2
2012/12/07

 俺たちを目ざめさせたものは――森には再び影が忍び寄り、焚火の火は消え、俺たちが目を開け、溺れた者が水面を見上げるように、梢に厚く明るい光を見上げたとき、俺たちの目をさまさせたのは、狼の群れの吠え声だった――。

「いや、そうじゃない」と言いながら、牧師は不意に立ち上がった。「二人はその後、いつまでも幸せに暮したんだ」
「いいえ、違います」それが私の返答だった。(D.H.Lawrence「ステンドグラスの破片」)

吐瀉物のごとくひかりの雨はふり噓をつくな永遠の愛なんて


2012/12/08

君も海も、同じほど、陰険で隠しだてする(『ボードレール詩集』堀口大學訳)

ロレンスにとって小説を書くという行為が、言語以前の感情のカオスを表現する営みであったことを示している。(「D.H.ロレンスの笑う身体と脱ロゴス化の欲望」三宅美千代)

言語以前の感情として雪はふる朝なればただ眩しむばかり


2012/12/09

次の日の夜、俺は馬屋に火を放った。火は母屋に燃え移り、屋敷の窓越しに、赤い焔が立ち昇るのが見えた。誰も彼も、命からがら逃げまどっていた。主人も、仰天した大勢の人間のなかの一人でしかなかった。凍えるほど寒かったが、火の熱のために汗をかいた。彼らはみな振り返って火事を見ていた。(D.H.Lawrence「ステンドグラスの破片」)

なんという恩寵
人は
死ねる         (谷川俊太郎『minimal』)

冬の星、すなはち遠き火事たちをみながら愛のつばさ伏せたり


2012/12/10

「言葉が人間を操っている」  (吉川宏志「短歌」短歌年鑑2012「言葉と原発」)

また、蛇は脱皮するので原初の時代から、不死の象徴とされている。よって神格性を帯びた大蛇は腸と似ているとされ、「大地の腸」と同一視された。(「D.H.ロレンスの「蛇」の詩―生命の王者への懺悔―」鈴木悟史)

「核納容器は一億年に一回しか壊れない」     (詠み人知らず)

夕焼けは一億年に一回も壊れないのに薔薇のあかるさ


2012/12/11

つまり、世界内では、事物相互の限界がきびしく区別されて居り、或る同質的空間が肯定されていて、事物は、そういう状態の中で、とらえられ、利用され、より確かなものにされるために、物品(オブジェ)に変形される――だが、想像的空間においては、事物は使われもせず使って損耗することもないとらえ得ぬものに変形される。(モーリス・ブランショ「作品と死の空間」)

「つまみ上げて、野原に置いてくるんです」/ドアは決して開けてはならない/私たちが愛情を抱いて近づくと、その瞬間小さな野生の動物は動きを止め、息を止め、黙りこくった仮死状態に陥ってしまう。/暗闇が落ち、父は仕事に出かけて行った。/八つ裂きにするのだろうか。/片側の胸だけが、かすかにピクピクと命にふるえている。/もう我慢できませんよ。砂糖壺に/入るなんて!」母は片手で/なかを覗きこんだ/電気のように機敏なアドルフには愉しかったと見え、/その瞬間にカップがひっくり返った。/お母さんが悪いんだよ。/こんなことには―― (D.H.Lawrence「アドルフ」)

空間のなかにしづけき卓上がありて林檎が停止してゐる


2012/12/12

未来では星が消える。夜の空からも昼の空からも、消えて、光がないから、いつもなにも見えなくて「いますか」「いるよ」「いますか」そうやって何べんもだれかがそばにいることを確認して安心して、あるときくだらなくなる。そうして片方が眠り始めると、もう片方は、「いますか」と尋ねたまま、星のない黒い空を見る。(最果タヒ『空が分裂する』)

 僕は僕の歩みを決定する。だが他人にとって僕の歩みだけが僕だ。これは魔法のやうに僕を怖ろしくさせる。/絶望はその冷酷度を増した。(吉本隆明「エリアンの感想の断片」)

愛情をひとつ滅ぼすためにゆくみぞれをわれの翼となして


2012/12/13

 海辺に程近い小綺麗な一軒家である。窓際に坐った小柄な若い男は、自分は新聞を読んでいると思い込もうとしていた。時刻は朝の八時半頃で、窓の外には、朝日を受けたグローリー・ローズが、火の小鉢を宙に傾けたように咲いている。若い男は食卓に目をやり、柱時計に目をやり、それから自分の大きな銀時計を見た。男の顔に硬い忍耐の色が現れた。男は立ち上がり、壁にかかった数枚の油絵に視線を向け、そのうちの一枚「追いつめられた鹿」を、敵意のある眼で丹念に見た。ピアノの蓋を開けようとしたが、鍵がかかっていた。(D.H.Lawrence「薔薇園の影」)

ドアを開けたら

 しづかに海へ

降つてゐて

(雨はみぞれに)

(みぞれは雪に)



2012/12/14

海はすべての
死者の夜の
内部となってながれた(辺見庸『眼の海』)

寄りながら暗き言葉をうちかはす我らにふれて焼死せよ雪


2012/12/15

I came down the steps with my pitcher
And must wait, must stand and wait, for there he was at the trough before me.(D.H.Lawrence)

これはロレンスの「蛇」という詩、つまり言ってしまえばHeとは蛇(Snake)であり、(実体験が背景にある(Large yellow snake)らしいが)蛇が主題と言える詩なのである。しかし、このmustという強い表現は一見蛇に向いているように見えながら、実のところ〈私〉に向いている。不意に現れた蛇という偶然性、それは聖性の喩であるが、それを自身へのエコーとして回収してしまうmust。

〈わたくし〉はほんとに強い敵なのだ夕べの雨にひしひしと思ふ


2012/12/16

 美しい女性がいた。人生の初めには恵まれた条件が揃っていたのに、彼女には運がなかった。愛し合って結婚したが、その愛も粉々になってどこかに消えた。(D.H.Lawrence「木馬に乗った少年」)

死にたくて来た訳じやない砂浜にひろがる海はされど凍蝶


2012/12/17

 ロレンスは、肉体のことを「暗黒の陸地」と言った。その陸地には、剥がすことの出来ない草の根がびっしりとしがみついていて、生命を身体の末端にまで送り続けているのである。今夜は風邪気味だからだろうか、私は、草の根がきゅうきゅうと締め付けられるような、むかむかとした不快感が脚全体を覆うのを感じている。

 そんな不快感の籠のなかにいながら、私の感情は或る二つのことがらを思う。思う、というよりも、自然にその方向を私の精神が見やってしまうのだ。まるで風の中の風見鶏のように自然に、そして、頑なに思ってしまう。一つは、自民党の再勝利。もう一つは、それに関する発言を後輩に飛ばしたところ、無視されたということ。並びに、その付近の発言に対して、幾分なぐさめてくださった方がいたこと。とりわけ後者のようなことは、私は基本的に忘れない。少なくとも五年とか六年スパンでは忘却しない。嫌なことをずっと憶えているという点では蛇であるが、恩を忘れないという点では犬である。

記憶とは私であるが雨でありしづけくわれの脚を冷やしき


2012/12/18
 
 古池や蛙飛こむ水のおと

 芭蕉のこの句の凄さは、切れという思想である。古池を読者が意識へと具現化すると同時に、切れ字の「や」が挟み込まれて、蛙の飛こむ音がする。ここで繊細な感受性を持つ私たちはおそるべき事に気がつく。蛙の飛こんだ音にしずかに「水」という質感が加えられて、「蛙飛こむ水のおと」が現実の感覚を帯び始め、それと同時に、「古池や」が時空の果て、無限と永遠の狭間へと飛んでいってしまうのである。この「古池」はおそらく、実在を詠んでいる訳ではないだろう。永遠の存在としての「古池」なのだ。この句の永遠性と一瞬性の葛藤、邂逅、その総てはたった一文字の思想、「や」から始まったのである。

ぬばたまの知の拒食症きらきらと蝶を放てば放つだけ死ぬ



2012/12/19

ゆっくりと時間をとって、過去に戻った人間のように、彼女は一方の小径を下って行った。ふと気がつくと、母親がときおり嬰児の手を愛撫するように、ビロードのような重たい真紅の薔薇を撫でていた。少し前かがみになって匂いを嗅いだ。それから、夢現でふらふらとさまよい歩いた。ときどき、焔の色をした匂いのない薔薇に注意を惹かれ、佇んで、自分にはその花が理解できないという風に凝視した。(D.H.Lawrence「薔薇園の影」)

冷たきは冷たきままに咲く花のそれで良いんだだから綺麗だ


*短歌日記第二部は、『ロレンス短篇集』(井上義夫編訳)を横に置きながら書きたいと思います。




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