夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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京大短歌19号に寄せる遅すぎる後記
機関誌「京大短歌」19号が完成した。大阪文学フリマの会場に届いて、その場では80冊程度買って頂けたようである。ほんのり赤い紙に真紅の一行線という、少しばかり攻めた表紙にしてみたが、これは今の京大短歌の暗喩としてかなりぴったりくるものなんじゃないか、と自負している。

私は「魔王」15首と「恋空和歌集」10首、評論「金星和歌拾遺」(と無駄にかっこ良く書いてしまった和歌特集全文)を寄せた。

「恋空和歌集」は恋空(笑)みたいな皮肉ではないのだが、萬葉から中世くらいまでの相聞歌からインスピレーションを受け、部分を継ぎ接ぎしたりふくらませたり直訳したり現代風にしたりした、愛の短歌集である。といっても10首だけなのだが。今回、萬葉時代の作者の歌は辛うじて直訳でも十分に恋空らしい叙情が取り出せたが、古今集は難しかったので、かなり改変した。とくに小野小町は知的すぎて無理だった。
螢よりきっと燃えてる想いだけど気付かれないね光らないから

「金星和歌拾遺」は近世和歌に対する評論のようなものである。五つの節に分けて、今では殆ど顧みられない近世和歌の可能性と限界、技術のヴァリエーションを析出させるよう試みた。といいながら、自作短歌が入っていたり、現代短歌について考察してみたり、私のいつもの不満を出してみたり、かなり無茶苦茶してしまった。もはや近世和歌論ではない気がする。
近世和歌には確かにつまらないものが多い。一部新鮮なもの・作者があったり、「たのしみは~」で始まる連作もおもしろかったりするが、どうしても萬葉~新古今のどれを模倣するかという問題に終始した、「模倣の廃墟」感が拭いきれなかった。しかし、それまでの和歌を俯瞰し、現代短歌の問題を相対化するために、私には格好の材料であった。近世和歌について語るというよりは、自分の問題意識の上で常に考えていたという感覚がある。
(ここからは殴り書き気味になっている)掛詞を駄洒落に堕としてはいけません。掛詞とは駄洒落より高度な詩です。それは技巧に血が通っているということです。技術に血が溶け込んでいるということです。血が通うためには、実に極小で精密な血管構造が要る。それは全く簡単なものではない。技巧を技巧だけのまま提出するのであれば、それは凄いものとは言えません。技巧が血を通わせる一個の有機生命体となること、これが本当の超絶技巧なのです。意味が乱反射するだけでは足りない、乱反射された光自体が渦となってまた自らを反射させるようでなくては……。技術に血を、感情に知を。

*後記を書く積りだったのが、忘れていて期限を過ぎてしまったので、ここに増量して掲載。

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立命短歌会
立命館大学短歌会の新歓歌会に潜入してきた。
立命館は京都市北西、その果てにある大学だ。西に行けば嵐山、そして山。北はすぐに山。近くには金閣寺がある。辺鄙ではないが、辺境ではあるかもしれない。私の場合そこに行くには電車を複雑に乗り継ぐか、祇園四条からバスで3,40分かけて行くしかない。高校3年で受験に行ったっきりだったから、実に五年ぶりということになる。(そのときは車で送ってもらったのだった。)

結論的なものいいになるが、歌を中心軸にした質の高い批評が飛び交う歌会だった。慣れ合いのようなものは感じなかった。京大短歌ではテクストに没入し、一語一語の効き方を慎重に量りとるような批評が多いが、対して立命は歌のもつ内容に添った物言いが多く、どの読みが相応しく、最良の読みに対してどのようにテクストが効いているかを、的確に話し合うという批評が多かったようにおもう。これはポトナムの気風なのか、もしくは別の要因なのか、私は知らない。歌にとって、過剰に意味という名の杖を使われることは不幸だ。歌は老人ではない(と少なくとも私は信じている)のだから。しかし同時に、その歌にとって適切な意味、読みを与えるということは紛れなく貴重な批評なのである。その歌会にとって意味という批評様式が良質か悪質かは、ただひとつの観点から測ることができる。つまり、皆をはっとさせ、おどろきと興奮に誘いこむような素晴らしい読みが誰かから出るかどうか、だ。いつもは知らない。しかし少なくとも今回の歌会では、それは良質なものと言ってよかった。

その後は朝まで飲んで、「茂吉ノオト」の宗教批評の話から下品な話まで、ときには飲み屋で、ときには未明の地べたに座り込んで話した。何よりおもしろい短歌会の条件というのは、人のおもしろさなのである。一人ひとりが異様な個性を持っている短歌会だけに、疲れることもあるが、それ以上に楽しさを感じる飲み会であった。朝食を摂り、朝九時に帰宅。




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