夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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野口あや子『夏にふれる』批評会記
秋の小雨のぱらつくなか、野口あや子『夏にふれる』批評会が東京で行われた。
私はパネリストとして拙いながら基調発言などをした。他のパネラーの方々は今井恵子さん、穂村弘さん、平岡直子さん。ノートをみながら少しだけ会場の発言を思い出してみたいとおもう。以下の発言たちは、藪内の勝手な記憶(改竄可能性あり)によって書かれているので、注意してください。

今井恵子さんの発表では「感情ではなく感覚」というものが鋭かった。それはときに「外からの断定に対して反応する「私」の身体」(たとえば、〈くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる〉『くびすじの欠片』)として発露する。野口さんの歌には主観的な〈その場〉感覚が強く臭っているが、そこには意外にも(そしてよい歌に対しては当然であるが)繊細な認識の力が漲ってもいる。
穂村さんと私が〈野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり〉を評価したことに対して違和をとなえ、こんな自分のスタンスを言っただけの歌よりも、〈しのび笑いをかくしていたるハンカチに砂まざりおり避難訓練〉のように実際の感覚がきちんと書かれているものがいいのだ、とおっしゃったことが思い返される。穂村さんはそれに応じて「確かに短歌的には〈しのび笑いを……〉の方が勝れているだろうけれど、結局後世にどちらが残るかって言われたら、前者だと思う。そりゃ短歌のひとは〈砂まざりおり〉とかすごいって思うだろうけど。」のようなことをおっしゃっていて、ほとんど首肯した。

穂村弘さんはさすがにおもしろい発言が多かった。〈捩られたからだが戻らないとしてもそこから花粉をこぼしてはだめ〉〈キャミソールの胸元をおさえるおんな そんなそんなやさしくあるな〉などを引いて、すべてに「これ女性ですよね」みたいな謎のモードを導入しておられた。(どうでもいいが、女性についての発言には、かなりあとから文句が聞かれた。)「〈捩られた〉のなかに戻るって字があるよね」「〈おんな そんなそんなやさしくあるな〉の「な」の脚韻だよね」など、細かな批評が光る。
「(女性的)主体性を他にどうやって恢復するかわからない」「作者には”ワザ”がない」「そのときに残されたものはもはや「呪い」か「祈り」、もしくは「テロリズム」しかない」という発言を聞いていて、野口さんが第一歌集『くびすじの欠片』において作っていた短歌という爆弾は、第二歌集においてついに短歌というテロリズムへと変貌を遂げたのだなと思った。
「柔道では「ワザにキレがある」選手と「何やっても崩れない」選手がいる。ぼく(筆者註;穂村さん)なんかは無理して歌作ろうとするところんじゃうんだけど、野口さんは後者で、(短歌的に)無理してもめったに崩れない。」などもおもしろかった。

平岡さんはいちばんまっとうで詳密なレジュメと発表だったとおもう。「役名…野口あや子」(一コマでキャラがわかるキャラクター)、「裸身という衣装」(「とにかく歌で裸になる。もっと服着ててもいいのに……」)など、章立てされた発表で、「歌を読んでいてもなんかたいへんそうだなって思うだけで、共感できない」「自分が思ってないことを観客に見せてしまってる歌集」など、はじめて本歌集をまともに批判した。「歌で裸にはなるんだけど、”枕営業”的じゃなく、脱いでって言わないのに勝手に脱いでる、それがそのまま迫力になる」というところ、首肯した。
他にも、野口さんは第一歌集で「少女」だったが、ここにきてそこから一足とびに「母」になりたかったのかな、とおっしゃっていたが、この歌集はどっちかというと若い女の人、二十歳前後くらいのメンタリティかなあと個人的には思った。どっちかというと平岡さんの歌に母を感じるが……。。
「自我の弱さがある」「反応乞食?」とメモられていて、たしかに自我的ななにものかが脆弱だからこそ、あからさまな自己言及の歌がここまで溢水するのかなあという気もする。

私は『夏にふれる』の身体性が危うさの予感として立ち現れること、そしてその身体感覚が空、飛行機雲、夕暮れなどの世界的感覚(世界的抒情)へとしずかに解けて、すり替わるところに、野口さんの本歌集の破格がある、ということを言いたかったが、うまく言えなかったうえに、無視された。〈青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる〉〈ここからは墜ちていくようにしか見えぬ飛行機ありて今あばら越す〉〈はみださぬように引きたるラインあり目よりとおくの場所をしらない〉とか、こんなに身体を遠いものとして感じられるんだ、と感銘を受けた。逆に言えば、こういう歌以外にはほとんど感銘は受けなかった。しかし、一冊の本においてひとつの感銘を与えられれば、それで充分によい本だともいえる。
本歌集は連作が弱い。基礎的な連作技術が無く、連作に絶対必須の「始まりと終わりの絶対的な切れ」がないところが大きい。そんなことをすれば、連作単位で読まれないのは当たり前だ。むしろ、歌集全体をひとつの連作と見做した方がいいだろう。ただし、「拒食症だった私へ」はよい連作である。(一首ずつを、連作における効果をふまえながら概説させていただいた。)

全体的には、あとで仕方ないとも思ったが、「女性性」としての「自己像」とかいうカテゴリーを軸にして議論がすすんでいたのが理解不能だった。それゆえに黒瀬珂瀾さんの「この歌集には「野口あや子性」しかないのではないか」という発言が爽快だった。他には馬場めぐみさんの「危うい〈私〉の二重蓋構造」綾戸さんの「全ての創作物はセルフパロディ化からは逃れられない」「この自己言及の歌はこれはこれとして楽しむべきなのではないかと思うし、楽しかった」みたいな感じの発言も、記憶の片隅にたしかな強さで光っている。

その後は二次会まで飲んで、東京駅で某氏と軽い打ち合わせをしたのち、終電で帰宅。久しぶりに未来のひとたちといっぱい飲んだが、とても刺激的で楽しかった。未来いいなあ、未来。田中槐さんには「ぼやうち→やぶうち→キレうち」とかいう謎の進化論をとなえられたりした。
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