夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



Counter



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

合理的な、(新田章『あそびあい』について)
先日『あそびあい』(新田章、①)というマンガを買ったが、これがおもしろかった。(読み切りは試し読みできます→http://morning.moae.jp/lineup/148)

「己の欲望と快楽に正直すぎていろんな人とHしちゃう小谷さん」(帯より)とピュアな男子高校生の恋愛ものなのだが、どうしようもなく「セックス」じゃなくて「H」であり、「純粋」ではなく「ピュア」なのである。精確にいえば小谷は「欲望と快楽に正直すぎて」ではなく、彼女自身の倫理的価値基準にのっとって合理的でしごく真っ当な最善行動(気持ちいいこと逃すのもったいないじゃん、的な)をなしているだけなのだが、一般的で社会的な倫理を気にし、それを暗黙のうちに当然と思っているものたちは、強く反撥し、怒り、違和に苦しむ。また、倫理観すら無く自らの欲望と快楽にその場限りの反応をしめすものたちは、永遠に彼女の《軸》に触れることはない。相手の《軸》に触れることが、人間に対するもっともエロティックな行為であるにもかかわらず。彼らは身体とかシチュエーションとかいうもののもつ安易さにしか反応できない。

『機会があれば誰だって楽しいことするでしょ? だから山下だって自分を振ったあたしとこうしてるんでしょ?』『したい人とすればいいじゃん? 新しいテク覚えてきたらあたしも気持ちいいし』『(授業を受けながら)本気でわかんない てか時間の無駄ノートの無駄』とか、すごくカッコいいなあ、と思う。極めて合理的でドライで、しかもサークラとして高度に完成されていて。(サークラ女の美は完成度の美である。)

このクールさみたいなものはどこから来ているのだろう。私も彼女にかなり近い合理的ドライさを(性的なところでは一回り違うけれど)持っているが、これは私が「私自身」や「人間」を低次なものとしてみており、それよりも論理とか直感とか法則の方をこそ信用し、重用するという考え方に拠っている。いうなれば「私の意見」「あなたの意見」なんかは雑で安易なものであり、なるだけ客観的に事態をみたときの論理的帰結や、その一言ですべてを裏返してしまうような鮮やかな天啓の一言のようなものの価値を信じているということである。たとえば「可哀想」とか「つらい」とかいうものは只のデータの一つであって、「そうなんだ」以上のことは思わない。私は私を大切に思っているが、そのことは「『私』を大切なデータとして扱うこと」とは厳しく区別される。

相手の軸に触れることはエロティックだが、"ねじれの位置"にある二つ、もしくは三つ以上の軸がお互いの違和に震え合うのもすばらしい。この作品では小谷の軸がメインとして据え置かれてあり、それに"平行"しない男子高校生や友人との震え合いが基本的な流れとなっている。(たとえば私とかは彼女と"平行"してしまうので登場人物的にはナシなわけだ……。)まあ勿論彼女が(そして私も)常に完全にクールなわけではないし、彼女と震え合わない関係性の男のバリエーションも見所だった。
スポンサーサイト




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。