夕鵙日記
短歌のblogです。
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藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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栗木さんと〈愚直〉について
 全くもっていまさらなのであるが、角川「短歌」2012年1月号の「新春放談」栗木京子のある発言に強い疑問を感じている。「京大短歌18号」の鼎談にもすこしだけ議題に挙がったのであるが、その発言のクリティカルをぬきだすと次の一節になると思う。

小池(昌代) ……シンプルなことばで、もっと心にグサっと入ってくるような、そういうことばの刺さり方を私は目指したいと。それが震災後、いよいよはっきりしてきました。そうすると、今までの現代詩からはどんどん離れていきます。
栗木 それはありますね。私も震災のことを詠むのにあまり比喩は使いたくない。もう愚直に、「なんで栗木さんはこんな歌になっちゃったの」と思われても、何か呼びかけたい。
小池 わかります。もっと愚直に、ぶざまな詩を書きたいんです、震災後は。……


 この、繰り返しつかわれる「愚直」という語から、熱の入った二人の応答から私が受け取るわずかな違和感は、どこから来るのだろう。
すべての鋭い創作は、根源的な〈自身〉からこそ生まれる、そういう思想をまず私は認めたい。しかし創作における〈根源的自身〉へのあくなき追及が、技術否定のほうへとわずかに方向をそらしてゆくのを、私は見逃さない。技術否定をひとは何故選ぶか。それは倫理によってである。技術というものを華美な服装、もしくは外界への硬い鎧とみなすような素朴な思考法が、そのひとにとっての技術という概念をしずかに倫理にふれさせる。
この〈倫理〉はしかし、根源的な自分自身がそれ自体で決定した倫理ではありえない。それは大衆によって慣用句的なかたちで出現する、常識という呼び名の倫理である。詩歌をつくるに際して、常識は常に唾棄されるべきものである。震災をくぐったことによりわきおこる感情の熱は理解できる。しかしその熱は作品にむけて発されるべきものであって、常識にふかいところで従ってしまっている自分をごまかすために使うものであってはならない。「愚直」という自虐・謙遜的表現によって、その微妙なレベルでの差異を塗りつぶしてはならない。
私たちは震災を詠うとき、否技術ではなく、要技術でもなく、そういう不毛な二元論のもっと手前のところで〈根源的自身〉につよく問いかけ、その姿を追求すべきなのではないか。震災によって大小に影響をうける〈根源的自身〉をちゃんと見つめて、もしもかれが野な言葉、すなわち技術を使わないということを要求すればそうすればいいし、暗喩などの技術を欲するのならばそうすればいい。自らの根源的な倫理を全体的な常識から徹底的に守り抜くということが大事なのである。
だから私は、不謹慎だと非難されたとしても、暗喩を、比喩を、むろん非‐技術という方法もふくめて、差別することなく使っていきたいと思う。

***

という文章を1箇月前に書いた。今みるとこの隆明かぶれの文章には抽象論的なきらいがあるので少し実地に書きくわえてみたい。

たぶん栗木さんたちがおっしゃっていたことには、二つの志向が混ざりあっている。一つは内田樹の言葉を借りると「肉体的・身体的な」歌を、抒情を取り戻したい、という意志である。すこし内田の話に沿いながら書くと、わたしたちはそもそも身体的な欲望にとらわれていたのが自然である。「今日は○○が食べたいから食べる」「いい女を抱く」のように身体に直接アクセスした欲望があったし、金はメシを食うためにあった。それがだんだんバブルの頃になると抽象的な、記号的な方向へと欲望は変化していった。金は債権、高給の社員などになり、自分の身体が欲する食物は有名店、三ツ星レストランになっていった。
この抽象化・記号化現象が歌壇でも起こっているのかどうかはわからないが、ともかくそこへの反省・脱却としての身体性への志向があったのではないか。地震・原発による強い生命的不安は、みずからの身体性への視線を恢復させるのに十分な力を持っている。

もう一つが、前述の倫理感である。現代の若手には、前衛・ニューウェーブ時代からの揺りかえしとして、修辞のわざとらしさを嫌うナチュラル志向が流行っているが、この発言にはそれに近い構造が隠されている。修辞がみえない、自然であることと、修辞の力がないということは当然ながら違うのだが、そこを曖昧にしたまま過ぎるひとが意外に多い。端的に言えば、私が栗木さんの発言に感じた違和感は「あまり比喩をつかいたくない」という発言に尽きるのかもしれない。修辞を遣ったからといって身体性が喪われるわけでもないし、遣わなかったら身体的になるかというと、ただのつまらない通俗的類歌になるだけである。

カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりわが部屋に火と水のあること
                           栗木京子 「短歌」2011.06

栗木さんの震災詠には、「なんでこんな愚直な~」というよりは、むしろ安定した技術と理知的な視点からの鮮やかな切り抜き方が魅力の核としてはたらいているようにみえる。この歌にもやや類型的な文体処理である「つつ思ひをり」と、「カップ麺の蓋」を「押さへ」るというリアルさの急所をとらえた非常に上手い表現があって、そのシャープさによって、「被災地に火と水がないことを遠く想う主体」がするどく立ちあがってくるのである。

浮かるるな自粛をせよと世は言へどパンダ観てるる勇気もあらむ      同

こちらは抜群に好きな歌だが、世に追随しない批評精神と視点のシャープさがひとつの力を持っている。しかしそれに加えて、勇気を与えてくれる対象が「パンダ」というのがやはり感動的なのだろう。これがもっと力のある感動ものの映画とか、そういうものでは台無しであって、ちょっとおかしみとかなしみのあるパンダだからいい。

横幅ある立派なかたちと福島県を地図に見てをりニュース終はるまで     同

 しかし所々に、大衆倫理的な方向――すなわち〈愚直〉ということなのだろうが、そちらの方へ寄っていってしまっているような歌がみられる。「立派なかたち」という賛辞は間違いなく愚直であって、なにも考えない三流歌人ならば必ずこのような表現をきれいに避けて歌を作る。しかしこの歌においての「立派なかたち」は、その典拠ともいうべき表現が文中にみられないため、どこか押しつけがましいという印象を抱いてしまい、私はどうしようもなく嫌な感じをこの歌に受け取ってしまった。これが倫理という負の一面である。おそらく、この時点ではまだ栗木さんは理知という自身の特色と、愚直さを融合せしめるには到っていない。

 彼女全体として愚直にかたむいていくというのはおそらく難しく、今の作風的強みと愚直さを融合させてゆくというのが、もっとも自然なこれからの行く道であるように私は思う。
 栗木さんはその鋭い理知を、どうやって身体性に溶け込ませてゆくのだろうか。それは私にはわからないが、わからないゆえに今後の栗木さんの作品を――むろん嫌らしい大衆倫理の押し付けは勘弁であるが――楽しみに読んでいきたいと思う。
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コメント
同感です
この文章、とても興味深く読ませていただきました。
前半は、そのとおりだと思いました。
特に

> 技術というものを華美な服装、もしくは外界への硬い鎧
> とみなすような素朴な思考法が、そのひとにとっての
> 技術という概念をしずかに倫理にふれさせる。

あたりと、その場合の「倫理」=大衆的、世俗的「常識」なのだという点、
また、

> 自らの根源的な倫理を全体的な常識から
> 徹底的に守り抜くということが大事なのである。

というあたりは、ホントホント、と思いながら読んでいたら、
…1ヶ月前の文章だったのですね。
読みすごしていて、すいません。

後半もおおむね同意です。
特に、

> 修辞を遣ったからといって身体性が喪われるわけでもないし、
> 遣わなかったら身体的になるかというと、
> ただのつまらない通俗的類歌になるだけである。

は、そのとおりだと思いました。
歌に身体感覚を求めるという動き自体は、例えば、確か吉川さんも昔から言っていて、今回の震災後に急に出てきた議論ではないと思います。
それはともかく、むしろ、自分の身体感覚を大事にした上で、それを表現し、的確に他者に伝える手段として短歌が選ばれたのであれば、むしろ、修辞こそ大事なのではないかと思いました。
(敢えて、既成の「修辞」を使わない」ということも含めて)

なんで、こんなことを殊更思ったのかというと、実は昨日の晩、大飯原発前がUstで中継されているのを、数時間思いっきり見てしまって、ものすごくいろんな感情が湧き、いろいろなことを考えさせられたからでした。
そして、とりあえず何首か詠んでみたものの、本当にこれでいいんだろうか、私の感覚が読者(がいるかどうか知らんが)にきちんと伝わるものになっているんだろうか、と不安になり、「修辞」のことを考えていたからなのでした。
[2012/07/03 00:03] URL | 小川和恵 #SrZTwVhw [ 編集 ]

Re;
わ、コメントありがとうございます。
一か月前というのはこれの前半を書いたのがその時期だったって意味で、
発表自体はこれが初出です。すみません。
ちょっと読みにくいかな、とおもって後半を付け足しました…。

僕としてはやはり0年代以降のナチュラル志向に対するひとつの批判として、〈倫理〉という軸を立てたいという気がしています。自らの身体の声を、その野性味を持ったままに表現に載せてゆこう、という思想がここ十年くらいをうごかして来たようにみえますが、そのときに何故か修辞への短絡的な倫理的否定という視点がまぎれこんでしまう。その倫理はおそらく間違いで、(いや、大衆的には合ってるんでしょうけど、)修辞って文の〈鎧〉じゃないんですよね。これは『レトリック感覚』とか『レトリック認識』でかなり主張されていたことですが…。

そしてその倫理は、少なくともすこし離れた第三者的同情の立ち位置から震災をみるときに、非常に強いものとなってしまう。まあそれはある程度仕方ないことだとも思って、栗木さんをそこまで責める気はないんですけれど。でもやっぱり、根源的倫理にしがみつくのが本当ですよね。

というかもともと「修辞」とか「技術」ってことばにマジックがあるってことだとも思います。

震災とか原発に対しては「詠わないほうがいい」とか「積極的に詠うべき」とかてんでばらばらの意見が出てますが、僕の意見としては、例えば小川さんが大飯原発Ustをみてある熱情のようなものが起こった、第一にそのこと自体を大事にするべきだ、というものです。そう思ったということだけは事実ですし、その熱情と大切に対話して、あるいは歌に、あるいは行動に、あるいはこころの奥底にしずみこませるという選択を一番切実に行えるのは自分だけなのですから。その対話のなかに自然に歌の修辞などの問題は融けていくような気がします。
[2012/07/04 01:44] URL | 藪内 #5WBiuDTc [ 編集 ]


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