夕鵙日記
短歌のblogです。
プロフィール

藪内亮輔

Author:藪内亮輔
短歌をやっていますが詩もすきです。結社「塔」編集委員、京大短歌、歌誌「率」所属。

近作→「歌壇」11月号「天と嘘」12首/角川「短歌」10月号「霊喰ヒM」50首/「文藝春秋」6月号「あまりにも美しい夕焼けが来たときのために」5首/「率」3号「藪内亮輔展~凡才でごめんなさい~」29首

評論近作→「率」3号「短歌にとって瞬間とは何か」/「現代詩手帖」9月号「岡井隆への手紙」/角川「短歌」5月号「斎藤茂吉論」

メール、ご依頼→yabusnake31(あっとまーく)gmail.com



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想念
遂に修論と、大学院での最後のレポート(となるはず…)を提出した。
修論発表会の後には一人でカラオケにでも行こうと画策していたのだが、本番であまりに緊張したせいで、口中の水分がすべておなかに行ってしまったらしく、咽喉への深刻なダメージと腹痛が発生。カラオケは中止し、家でぐったりとしていた。相手が生徒だったり観客であれば発表は楽しいのだが…。



今日は稀な冷え込みで、庭にも雪が降っていた。雪は、想像のように一つの方向にばかり降るわけではなく、非常に綿密で複雑な動きによって風の流れを次々に空間へと彫刻していた。もしも風が私たちに見えたなら、あのように、生物の触手が自らに複雑に巻き付き絡み付くような、ゴルゴンの蛇の頭のような、自らの身体のなかにまた蠢く身体をマトリョーシカのように持っている、おぞましいものに見えてしまうかもしれない。しかもその上で、それをとても美しいと思ってしまうかもしれない。



『一角獣と貴婦人』のタペストリーを見に行ったことがある。貴婦人が風の中で、旗を片ほうの手に、一角獣の角をもう片ほうの手に握っている。「その角が、もし悲しみであるならば、悲しみとはこうも毅然としていられるものなのだろうか?」(『マルテL.B.の手記』)。旗が風を受けているのは、風の一瞬である。旗に一瞬の形象を束ねられている、そしてそれまでとその後で見えずに絡み合っているだろう、風の厖大な身体をおもう。



悲しみは毅然と立ち尽くし、さびしさは疾走するだろう。

新年
明けましておめでとうございます。
しびしび更新していくつもりなので、今年もよろしくお願いします…。

それはさておき、新年〔sinnnen〕と打とうとしたら深淵〔sinnen〕と打ってしまいました。まさしく、[去年今年貫く棒の如きもの](虚子)であれば、去年と新年を繋ぐ「棒の如きもの」の崖下には深淵が横たわっていることでしょう。しかしながら深淵に虞れながら歩みゆくときにその一本の「道」は「未知」、震えるくらいエロティックな未知の道になります。願わくば、この一年そのものが未知の道になりますように。



一月の光りゆたけきゆきのなか傘もわたしもひらかず行かう





合理的な、(新田章『あそびあい』について)
先日『あそびあい』(新田章、①)というマンガを買ったが、これがおもしろかった。(読み切りは試し読みできます→http://morning.moae.jp/lineup/148)

「己の欲望と快楽に正直すぎていろんな人とHしちゃう小谷さん」(帯より)とピュアな男子高校生の恋愛ものなのだが、どうしようもなく「セックス」じゃなくて「H」であり、「純粋」ではなく「ピュア」なのである。精確にいえば小谷は「欲望と快楽に正直すぎて」ではなく、彼女自身の倫理的価値基準にのっとって合理的でしごく真っ当な最善行動(気持ちいいこと逃すのもったいないじゃん、的な)をなしているだけなのだが、一般的で社会的な倫理を気にし、それを暗黙のうちに当然と思っているものたちは、強く反撥し、怒り、違和に苦しむ。また、倫理観すら無く自らの欲望と快楽にその場限りの反応をしめすものたちは、永遠に彼女の《軸》に触れることはない。相手の《軸》に触れることが、人間に対するもっともエロティックな行為であるにもかかわらず。彼らは身体とかシチュエーションとかいうもののもつ安易さにしか反応できない。

『機会があれば誰だって楽しいことするでしょ? だから山下だって自分を振ったあたしとこうしてるんでしょ?』『したい人とすればいいじゃん? 新しいテク覚えてきたらあたしも気持ちいいし』『(授業を受けながら)本気でわかんない てか時間の無駄ノートの無駄』とか、すごくカッコいいなあ、と思う。極めて合理的でドライで、しかもサークラとして高度に完成されていて。(サークラ女の美は完成度の美である。)

このクールさみたいなものはどこから来ているのだろう。私も彼女にかなり近い合理的ドライさを(性的なところでは一回り違うけれど)持っているが、これは私が「私自身」や「人間」を低次なものとしてみており、それよりも論理とか直感とか法則の方をこそ信用し、重用するという考え方に拠っている。いうなれば「私の意見」「あなたの意見」なんかは雑で安易なものであり、なるだけ客観的に事態をみたときの論理的帰結や、その一言ですべてを裏返してしまうような鮮やかな天啓の一言のようなものの価値を信じているということである。たとえば「可哀想」とか「つらい」とかいうものは只のデータの一つであって、「そうなんだ」以上のことは思わない。私は私を大切に思っているが、そのことは「『私』を大切なデータとして扱うこと」とは厳しく区別される。

相手の軸に触れることはエロティックだが、"ねじれの位置"にある二つ、もしくは三つ以上の軸がお互いの違和に震え合うのもすばらしい。この作品では小谷の軸がメインとして据え置かれてあり、それに"平行"しない男子高校生や友人との震え合いが基本的な流れとなっている。(たとえば私とかは彼女と"平行"してしまうので登場人物的にはナシなわけだ……。)まあ勿論彼女が(そして私も)常に完全にクールなわけではないし、彼女と震え合わない関係性の男のバリエーションも見所だった。
短歌日記3
短歌日記3

2013.11.22
「鬱くしいとすら言えないゲロみたいな感情」に戸惑っていたら、時計の銀針は零時をとうに回っていた。白い棚の下から二番目より取り出した、植物のプリントが色とりどりに圧されているカップに白湯を注ぐと、カップの中では光が混ぜられながらぱちゃぱちゃとはしゃぐ。そのうちの一滴が親指の付け根に跳ねとんできて熱みを感じた。0.001ミリグラムほどに縮小した筈の「感情」の半減期は七日、しかし半減するほどに「薬は少量で済むやつが一番強いもの」(432日前の短歌日記)という言が蘇ってきて、私の心胆を震え上がらせる。0が一つずつ霊になる。眼前のデンファレが花瓶の頸の上に揺れて、あまりにも嫌いなひとの容姿を思い浮かべるたび、はらわたはずたずたに腹部内容物によって裂かれ、精神は精神自身をその脆さによって刺しつのり、ほの明るさを残して去ろうとするその姿に、手を合わせて祈り、みんな死ねという結論に到る。
〈硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ——浜田到〉

 *

今日もスーパーで簡単に野菜などを買って、夕食を二品ほど作ってみた。茹で蛸と大根とふきの檸檬醤油風酢の物。トマトと玉葱の微塵切りを煮ただけのナチュラルトマトスープ。前者はふきを煮すぎて食感が悪かった。後者は粉チーズをたっぷりかけて食べるのが旨く、わりあい好評であった。

大根をうすき銀杏に切るときの刃はほのしろきゆきに濡れたり


2013.11.23
今日の料理は金平牛蒡(ほぼ習得、美味しかった)、アボカドとウインナーとブロッコリーのニンニク炒め(にんにく臭く、アボカドが苦かった)、ほうれん草のおひたし(だしに漬けたが、つけないほうが好みだった)。その後、スマブラの練習。ヨッシーの調子がよく、ピカチュウを何度も回転ずつきで屠った。

不愉快な電話を終へてどうやつても即死コンボがしづかに決まる


2013.11.24
延滞の本三冊(吉増剛造『無限のエコー』、荒川洋治『渡世』『心理』)を返却するために電車に乗り、京都府立図書館へ。東山駅から徒歩で本を返却しに行き、京大短歌の歌会のためその足で二キロほど先の京大サロンへと歩いた。歌会後はケニアという定食屋へ。左では頬と乳首の関係、右ではAVの話が盛り上がっていて、いいかんじだった。数学の発表用意は今日もやばい。

抜き身の刀のやうにさびしくゐることも愛とおもへば純銀だつた


2013.11.25
Humphreys『Introduction to Lie Algebra』を借りるために大学の図書館へ。寄り道をして生協で角川「短歌」、『岸辺露伴は動かない』を買う。支払いのときに学生証提示を求められて、傘と財布とイヤフォンを持ちながら学生証を出そうとしたら絡まってお金をぶちまけてしまった。附属図書館に移動して「短歌研究」12月号にざっと目を通す。座談会の記事には「大学短歌会には大学から数十万クラスで活動費が落ちている」という事実誤認があった。雨の上がった構内を歩いて理学部図書館にゆき、冒頭の本を借りたのち、数学図書館でBorelの『Linear Algebraic Groups』を探すが見つからず。

 *

雨は上がっていたがまだ余韻が降っていた。ふる、という行為性はたとえば魯迅にルーシュンとルビをふる。先ほどまで雨に打たれていた地面はまだ振るえており、出るとそこには冬のはじまりの雨独特の振動がすべての樹に、艸に、壁に、花に、地面に内在されていたが、人だけは暗い眼を俯けてひとりひとりを歩いていた。暗い風景は胸につめたい天秤をかたむけて、こぼれる、わたしたちはおそらくひとりひとりの眼のなかにひるがえっては燃える扇のまたたき、それは燃え尽きることがない。わたしが出町柳駅から帰ろうとするとき已に時計の銀針は5を刺し示しており、「動きすぎてはいけない」、「岸辺露伴は動かない」、地下鉄は停車する、心は停止してゆく、銀杏だけはまだ燃えている、それがきれいで、みんな死ね。

ごめんねごめんね言葉は殺せないだからきみは銀杏にすることはできない


2013.11.26
三時間ほど睡眠をとって、二限の微分幾何学へ。朝からの急激で波状な嘔吐感をなんとかなだめながら大学へゆく。蒟蒻ゼリー、綾鷹を買う。間の悪いことが重なって、レポート課題を書き写せなかったり提出できなかったりした。嘔吐感はそのままに、帰宅する。なにも口に入りそうにないので、昼食はフルーツヨーグルトに。胃薬を服用して随分楽になる。数学の予習をしていたら夜の帳が降りてきたので、夕食の準備。きんぴら、鶏の生姜焼き、アボカドとトマトの檸檬醤油和え、ほうれん草のおひたし、コーンスープなど、簡単な食事を用意する。全体的に出来上がりは硬かった。

 *

もっとしずかににくしめばよかったのだ。銀杏の葉の跫音が近づいて遠ざかる、近づいて遠ざかる、金色の葉の音。昼の雲から洩れる陽のなかで夜の月の光のなかでたしかに底低い音を引き摺っては遠ざかる、いきを鳴らして、嘔吐の寸前に咽喉は螺旋をなしてしぼられる純白の弓の弦、純銀の漏斗は空に設置されていて次々に嘔吐感、をおとしては私はそれをこぼさないように拾う。音は感情のすべての毛細血管を支配する。もっとしずかにくしめばよかった。俎板の上に置いた冬の檸檬に銀の刃を差し込めば、刃はうすく濡れて、刃をぬぐえば布が濡れて、音はすべて濡れていて、手はほのかな酸味にぬれていて、肉体や皮膚の内部はぬれていて、愛は滅びなさい。すべて。すべてです。みんなしになさい。1806、夜が街へと刺し込まれていって、あえなくそれぞれの窓たちは、痛みにたえ、みずからの営みを「発光」させていった。その一片に、彼女がひとりの男の上にたつ風景がある。もっとしずかにくるしめばよかった。

眼窩へと刺しこんでくる冬の街 Zigzagにゆくんだ、さう、zigzagに


2013.11.27
11時に起きるが、よく考えると月曜日に授業が振替であることを思い出し、正午過ぎまで二度寝する。昼食に堂園パスタ(堂園さんに教えてもらったオイルサーディン・パスタ)を作る。誤って唐辛子を食べてしまう。胃の調子は最悪ではない。大学で18時までゼミ。修論にするBruhat decompositionを発表する。固有値によって収束が証明できたりと、意図の外の収穫があった。夕食はタイ料理。鴨川沿いの店で鶏肉のバジル炒めとタイのご飯、目玉焼き、揚げ春巻きとスイートチリソースなど、定番を頼んだが、とても美味しかった。

 *

古書店でまた幾つか本を買った。ドイツ・ソヴェト詩集、ハイネ詩集を読むのが楽しみだ。——人間ども、二本足の蛇め、きさまらがズボンをはくわけはよくわかってるぞ! きさまらはそのつるつるの蛇肌を他人の毛皮でかくすんだ。——アッタ・トロル 夏の夜の夢(ハイネ)

たましひが荒ぶるまへのたまゆらの戸惑ひ 花にながす電流


2013.11.28
正午過ぎに起床、即座にお腹を壊し、トイレに1時間立て篭る。その後もだらだらしていたら、16時になってしまった。夜食は天下一品、知恩院前店。帰りの駅でカッコいい外国人カップルに淀屋橋への行き方を尋ねられたが、英語は全く分からないので、「This train! Change train! Limited express!」と適当にまくしたてて送り出した。

 *

胸くそ悪いひとつの宝石を渡されて、人差し指にくつがえすとそこには林が写っていた。つまびらかにやってくる性の嵐をわずかながらの手のひらとゆびの尖でそぎ取って、樹は立っているのか。傘もささずに。樹にながれる水滴は黒糖のあまさだが、すでに暗い眼をみひらいていた。

もう誰にも触れられぬやういちまいの銀貨を落とす雨後の林に


2013.11.29
正午過ぎに起床、同時にテスト期間らしい弟が学校から帰ってくる。堂園パスタを作り、昼食とする。犬にパスタを一本渡すと食べはじめた。スマブラの自主練、あまさわループがだいたい出来るようになった。角川さんから電話があり、二つ忘れていたことを思い出す。至急、原稿とメールの返信。珈琲は勿論胃に良くないのだが、この頃は紅茶すら飲めない日が多い。しかしもっとひどい日になると、紅茶の代わりの白湯ですら胃にしみて痛むときがある。今日がそのような日だった。夕食にはきんぴらと鮭の檸檬風パスタ、アボカドのサラダなどを作った。千葉雅也の対談が京都造形大であると聞いていたが、結局行けず。涅槃交響曲を聴きながら、「胸くそ悪い宝石」をながめたり、電灯に透かせたりして過ごす。

 *

もし、「作品」がわたしたちのたましいであったなら、わたしたちはとてつもなく命知らずなことをしている。こんなところに差し出して。

 *

詩でもコピーでもシェイクスピアでも、掛詞という技術はふつうに使われるのに、なぜ「現代」短歌では用いられることが少ない(もしくは先鋭的なレトリックとして認識され、一瞥される)のだろう。HUNTER×HUNTERの「殺して夜る」、という怒りをもって思う。

こふこともこはれることも蝶番ひとつをもって冬の丸椅子

2013.11.30
昼、明日は京都水族館で吟行だが、夕方から抜けて友人とスポーツに行くことになった。夕、食卓には皿がのりきらないほど並んだ。鶏胸肉の檸檬揚げを久しぶりに作る。夜、安田さんへ送る「率」4号を封筒に入れる。

みな冬へむかふ電車にゆられをり星のまばたきにすら嘔吐し


2013.12.01
アクアリウムには一時間半遅刻し、みなに追いつく為に殆どの水槽を一瞥しただけで通り過ぎる。きっちりと壁に埋め込まれた直方体の水槽は、それぞれの生物にとっての最小限のサイズに調整されているようで、窮屈な瑠璃色の檻を観ていると、「私」が「私の皮膚」に常に囲まれているという絶望的な事実を思い出してしまい、それを振り切るようにして皆の許へ向かった。

 *

高校の友人の失恋飲み会に参加。その子はやめたほうがいいなあ、というひとについての恋バナを聞く。故意花でしょうね。

アクアリウムに眼、眼、めんとむかつてはいけない特に蛸のまへでは


野口あや子『夏にふれる』批評会記
秋の小雨のぱらつくなか、野口あや子『夏にふれる』批評会が東京で行われた。
私はパネリストとして拙いながら基調発言などをした。他のパネラーの方々は今井恵子さん、穂村弘さん、平岡直子さん。ノートをみながら少しだけ会場の発言を思い出してみたいとおもう。以下の発言たちは、藪内の勝手な記憶(改竄可能性あり)によって書かれているので、注意してください。

今井恵子さんの発表では「感情ではなく感覚」というものが鋭かった。それはときに「外からの断定に対して反応する「私」の身体」(たとえば、〈くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる〉『くびすじの欠片』)として発露する。野口さんの歌には主観的な〈その場〉感覚が強く臭っているが、そこには意外にも(そしてよい歌に対しては当然であるが)繊細な認識の力が漲ってもいる。
穂村さんと私が〈野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり〉を評価したことに対して違和をとなえ、こんな自分のスタンスを言っただけの歌よりも、〈しのび笑いをかくしていたるハンカチに砂まざりおり避難訓練〉のように実際の感覚がきちんと書かれているものがいいのだ、とおっしゃったことが思い返される。穂村さんはそれに応じて「確かに短歌的には〈しのび笑いを……〉の方が勝れているだろうけれど、結局後世にどちらが残るかって言われたら、前者だと思う。そりゃ短歌のひとは〈砂まざりおり〉とかすごいって思うだろうけど。」のようなことをおっしゃっていて、ほとんど首肯した。

穂村弘さんはさすがにおもしろい発言が多かった。〈捩られたからだが戻らないとしてもそこから花粉をこぼしてはだめ〉〈キャミソールの胸元をおさえるおんな そんなそんなやさしくあるな〉などを引いて、すべてに「これ女性ですよね」みたいな謎のモードを導入しておられた。(どうでもいいが、女性についての発言には、かなりあとから文句が聞かれた。)「〈捩られた〉のなかに戻るって字があるよね」「〈おんな そんなそんなやさしくあるな〉の「な」の脚韻だよね」など、細かな批評が光る。
「(女性的)主体性を他にどうやって恢復するかわからない」「作者には”ワザ”がない」「そのときに残されたものはもはや「呪い」か「祈り」、もしくは「テロリズム」しかない」という発言を聞いていて、野口さんが第一歌集『くびすじの欠片』において作っていた短歌という爆弾は、第二歌集においてついに短歌というテロリズムへと変貌を遂げたのだなと思った。
「柔道では「ワザにキレがある」選手と「何やっても崩れない」選手がいる。ぼく(筆者註;穂村さん)なんかは無理して歌作ろうとするところんじゃうんだけど、野口さんは後者で、(短歌的に)無理してもめったに崩れない。」などもおもしろかった。

平岡さんはいちばんまっとうで詳密なレジュメと発表だったとおもう。「役名…野口あや子」(一コマでキャラがわかるキャラクター)、「裸身という衣装」(「とにかく歌で裸になる。もっと服着ててもいいのに……」)など、章立てされた発表で、「歌を読んでいてもなんかたいへんそうだなって思うだけで、共感できない」「自分が思ってないことを観客に見せてしまってる歌集」など、はじめて本歌集をまともに批判した。「歌で裸にはなるんだけど、”枕営業”的じゃなく、脱いでって言わないのに勝手に脱いでる、それがそのまま迫力になる」というところ、首肯した。
他にも、野口さんは第一歌集で「少女」だったが、ここにきてそこから一足とびに「母」になりたかったのかな、とおっしゃっていたが、この歌集はどっちかというと若い女の人、二十歳前後くらいのメンタリティかなあと個人的には思った。どっちかというと平岡さんの歌に母を感じるが……。。
「自我の弱さがある」「反応乞食?」とメモられていて、たしかに自我的ななにものかが脆弱だからこそ、あからさまな自己言及の歌がここまで溢水するのかなあという気もする。

私は『夏にふれる』の身体性が危うさの予感として立ち現れること、そしてその身体感覚が空、飛行機雲、夕暮れなどの世界的感覚(世界的抒情)へとしずかに解けて、すり替わるところに、野口さんの本歌集の破格がある、ということを言いたかったが、うまく言えなかったうえに、無視された。〈青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる〉〈ここからは墜ちていくようにしか見えぬ飛行機ありて今あばら越す〉〈はみださぬように引きたるラインあり目よりとおくの場所をしらない〉とか、こんなに身体を遠いものとして感じられるんだ、と感銘を受けた。逆に言えば、こういう歌以外にはほとんど感銘は受けなかった。しかし、一冊の本においてひとつの感銘を与えられれば、それで充分によい本だともいえる。
本歌集は連作が弱い。基礎的な連作技術が無く、連作に絶対必須の「始まりと終わりの絶対的な切れ」がないところが大きい。そんなことをすれば、連作単位で読まれないのは当たり前だ。むしろ、歌集全体をひとつの連作と見做した方がいいだろう。ただし、「拒食症だった私へ」はよい連作である。(一首ずつを、連作における効果をふまえながら概説させていただいた。)

全体的には、あとで仕方ないとも思ったが、「女性性」としての「自己像」とかいうカテゴリーを軸にして議論がすすんでいたのが理解不能だった。それゆえに黒瀬珂瀾さんの「この歌集には「野口あや子性」しかないのではないか」という発言が爽快だった。他には馬場めぐみさんの「危うい〈私〉の二重蓋構造」綾戸さんの「全ての創作物はセルフパロディ化からは逃れられない」「この自己言及の歌はこれはこれとして楽しむべきなのではないかと思うし、楽しかった」みたいな感じの発言も、記憶の片隅にたしかな強さで光っている。

その後は二次会まで飲んで、東京駅で某氏と軽い打ち合わせをしたのち、終電で帰宅。久しぶりに未来のひとたちといっぱい飲んだが、とても刺激的で楽しかった。未来いいなあ、未来。田中槐さんには「ぼやうち→やぶうち→キレうち」とかいう謎の進化論をとなえられたりした。




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